福西 亮馬
かずのクラスでは、それぞれの学年に応じて、数に対する感覚を身に付けることが課題になっています。それぞれの生徒に、その時点での階段があって、「ああ、今はここなんだなあ」と、昔自分がそこにいた時のことを振り返りながら、なつかしく接しています。
今、幼稚園では、小さなお子さんが親御さんに手を引かれて、石段を登って来る光景が見られます。たまに幼稚園の子どもたちが平気で駆け下りていく姿と混じる瞬間があって、ほほえましいです。あの時、「よいしょ、よいしょ」と後ろから一段ずつ見守っしていた心配が、やがては一人で歩けるようになって、解消していることを、私たちは経験的に知っています。
勉強に関しても、中学生に上がった頃から、だんだんと親御さんの手を離れていきます。そしてこちらが勉強を見てあげようとしても、なかなか応じてくれなくなります。裏を返せば、それまでの小学生の6年間で、一緒に勉強を見てあげる必要があるのだと思います。
もし小学生の時に勉強を見てもらうという必要が満たされていたなら、案外、あとは一人で計画を立てて、勉強をしてくれるようになっていきます。それには親に見られるのが嫌という気持ちも含まれるでしょうが、むしろそれまでと同じように時間を割いて見てもらうのは、申し訳ないと思うからです。また自分ひとりでもできると思えるし、勉強に対して、(嫌でも)前みたいにするのが普通と思うようになってくるからです。
そのように予想を立てながら、私は今の小学生たちの勉強を見ています。勉強のことで、一緒に登ってあげることが、やがてはそれを一人で登れることの応援につながっているのだろうと信じています。
さて、1年生は本当に純粋な時期で、「引き算ができるようになった」「繰り上がりができるようになった」という一つ一つの階段を、まるで幼稚園の延長のようにしています。
この間、春学期から続けていたドリルが、どの生徒も一冊終わり、2冊目にかかっています。その2冊目を軽々とできるようになった自分を発見できるのが、何よりのご褒美です。そうした自信がつくことは大事なことだと感じます。
1年生のドリルの最初の最初のページを見ると、こいぬやチューリップの絵があります。これを見て、「かんちこちんや」と言えるようになった生徒は、これまでの自分と階段とを振り返って見下ろしているのだと思います。
そしてふと思い出した時に、それを登ってきたのが「一人ではない」ことを感じ取れる生徒は、中学生になってからも引き続き、その面影を背にして、勉強に対する姿勢を失わないのだろうと思います。
(2005.10)