『三びきのやぎのがらがらどん』
──もしも あぶらが ぬけてなければ、まだふとっているはずですよ
マーシャ・ブラウン/作、瀬田貞二/訳
福音館書店1965年
マーシャ・ブラウン/作、瀬田貞二/訳
福音館書店1965年
「トトロって、あの絵本に出てくる、トロルのこと?」と言われる、あれがこれなのかもしれません。
小さいやぎ、中くらいやぎ、そして大きいやぎのがらがらどんは、山の草を食べに、順番に橋を渡ろうとします。
すると、橋の下には意地きたないトロルがいて、「だれだ、おれのはしをがたごとさせるのは」と言って、とうせんぼをします。
小さいやぎは小さな声で、「ああ、たべないで。後のやぎの方が大きいですよ」と言いわけします。そして二番目もまた、「おっと食べないでおくれよ。じきにもっとすごいのがここを通るから」と中くらいの声で請け合います。
トロルは、大きければ大きいほどいいにちがいないと胸算用して、二匹を通してしまうのですが、最後のやぎのがらがらどんがあんまり大きすぎたので、結局は食べられなかったというお話です。
ちょきん ぱちん すとん。 はなしは おしまい
と、太っているやぎの絵のページが閉じられると、子ども達の中のだれかが「もういっかい」と言い、するとほかの子も「よんでよんで」と言い出します。今も昔もある本には、それなりの理由があるように思います。繰り返しの素朴さや、トロルのこわさに対する興味が、子ども達を「お話の世界」で遊ばせてくれるのでしょう。
私は実習の時に、はじめてこの絵本と出会いました。「さあ、ご本を読みますよ」という先生のそばに、ちょこんと座った子ども達の後ろで、私も見学していました。先生は、たくさんの瞳を前にして、なにやら隠し持ったような含み笑いをなさりながら、絵本のとびら絵を開けます。
私は、子どもたちの動かないうなじを見ながら、「なんて一生懸命に聞くんだろう」と感動したのでした。「ああ、これが絵本の時間というものなんだな」と感じ、自分にもいつかそうした場を持てる時が来るのだろうかと予感しました。
その日の夕方、誰もいない保育室で、私は、子ども達の心をとらえたものが何だったのか、気になって、ひっそりとした棚の前に立っていました。
ちょきん ぱちん すとん──あの時と同じ音声が、今は文字になってそこにありました。それからちょっとため息をついて、今度は別の絵本をさがし始めました…。それが、絵本を見つける楽しさを意識した、最初の時だったように思います。と同時に、そこに今はいない子ども達のことが浮かんで来て、あの時「これぞ絵本の時間」と思えたのは、まさに子ども達と先生との一体感だったんだ、と感じたのでした。
こうした思い出もまたいつかは薄れていくものなのでしょう。けれどもその時には、今よりも純化されて、心の中に残るのだろうと思われます。そのような不確かになっていく思い出の情景が、今の私を支えています。
文章/Ryoma先生