お山の絵本通信vol.53

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『しりたがりやのふくろうぼうや』
マイク・サラー(セイラー)/文、デービッド・ビースナー/絵、せなあいこ/訳、評論社1992年

今は、雪がちらつく冬の真っただ中です。でもこのお山の早朝は、まるで春のように多くの鳥がさえずり飛び交っています。近頃、なぜか鳥にご縁があります。小さな野鳥のヒナが通路の真ん中にちょこんと休憩していていつまでも動かないので、足を止めて背中を触ってみるとゆっくりと飛んでいったり、また、大きな野鳥が力尽きたのか、草の上に体を横たえている様子なども目にします。「なぜかな?」 という疑問が浮かんでは消えます。

自然の中で、春を待ちわびるような気持ちでたたずんでいると、まだ1月なのに今にもウグイスの声が聞こえて来そうな気もします。

そんな思いを巡らせていると、本棚の小さな絵本が目に入りました。お月さまが照る雪の夜、大きな木の枝に止まっている1匹の子どもふくろうが表紙に描かれたこの絵本は、「しりたがりやのふくろうぼうや」。そうそう、このお山にも春の夜には“ふくろう”がやって来て、『ホッホー、ホホッホ ホッホー! 』と、空高くから穏やかな声を響かせてくれるのですよ。

ふくろうのアウリーぼうやは、大変な知りたがり屋さんで好奇心旺盛な男の子。一晩中でも起きています。そしていつも、お母さんにたくさんのことを尋ねるのでした。

   『お空には どれくらい お星さまが あるの?』
   『お空は どれくらい 高いの?』
   『海には どれくらい 波が あるの?』
   『海は どれくらい 深いの?』

ふくろうのお母さんは、その度にっこりして言います。「かぞえてごらん」。

ぼうやは、木の枝に止まりお月さまに照らされながら、「ひとつ、ふたつ、みっつ…」と星の数を数えていきますが、おひさまが昇る頃になっても数え終わりません。眠たい目をして巣に戻ってきたぼうやに、お母さんはたずねます。「お星さまはいくつあった?」

ぼうやは、「数えきれないくらいあったの」と、お母さんの横で疲れて眠ってしまうのでした。

『お空はどれくらい高いか』も、木よりも高く、雲まで飛んでいって確かめてみるのでした。そして力いっぱい雲を越えてどんどん飛んで行っても、まだまだ空は高く続いているのでした。

次の朝になってすっかり疲れて帰ってきたぼうやは、「飛んでも飛んでも届かないくらいだったよ」と半分眠りながら応えます。

『海にはどれくらい波があるか』も、おひさまが昇るまで「せんと いち、せんと に…」と数えていきますが、数えても数えても海には波が残っていました。そしてまた、疲れて帰ってきたぼうやを、お母さんふくろうは温かく迎え休ませるのでした。

『海の深さ』も、「お空の高さと同じくらいとっても深いのよ。」とお母さんから教えてもらってからは、もう、その晩は何処へも行かずに、空のこと、星のこと、波のこと、お母さんに教わった全部のことを考えてみました。 そして、数えられないほど限りないものがあることを知ったぼうやは、自分をいつも支え包んでくれる、海の深さほどあるお母さんの愛情にも気づき、安心を得るのでした。

このふくろうのお母さんのように、子どもの持つ疑問に対して、一つずつ決して急がずいつも愛情豊かに対応してあげることは、本当はなかなか難しいことだと思います。真面目なお母さんほど、きちんと答えてあげなくてはと、正しい答えを用意して教えてあげられることでしょう。そうして子どもに頭で納得をさせるのはある意味手っ取り早いのですが、子どもにとっては、このふくろうぼうやのように、実体験を通して自分自身で確かめたり、数えたり、冒険して学ぶことにこそ、簡単に教えてもらったことよりも何倍もの大きな意味があります。

子どもの旺盛な好奇心を、どのようにして守り育てればよいのか。どこまでも深く優しい愛で見守り応援するふくろうのお母さんの姿勢に、心うたれます。親子で過ごすおやすみ前の絵本にも最適ですが、また一つ、子育てのヒントが含まれているようにも思えました。

この、子どもの好奇心について、親はどうあるべきか。すぐに応えるのではなく「そうね」「ほんと?」と相槌をうって聞いてあげる存在であるべきではないか…と仰っていたのは、動物行動学者の日高敏隆先生(「動物行動学入門 ソロモンの指輪」の訳者としても有名で、また最近私が読んだエッセイ「春の数えかた」(新潮文庫)の著者でもある)でした。

雑感――子どもの好奇心を大切にしたい

昨年の春、この日高敏隆先生の講演を聞く機会があったのですが、そのお話は私にとって、言葉では言い表せないほどの感動を覚えるものでした。

内容は、先生ご自身の子ども時分を振り返り、子どもの持つ好奇心、そしてそれを理解し伸ばさねばと、味方になってくれた恩師との思い出を、とつとつと話されたものでした。

日高先生は昭和5年東京生まれ、現在はもう80歳近くになられて今なおお元気ですが、小さい頃は大変虚弱で、お腹をこわしては小学校を休む日がつづき、6歳の時にはとうとう入院するほどになります。日本が戦時中の当時、小学校に課された役目は立派な兵隊を養成することでした。日々、厳しい訓練を余儀なくされるのですが、体が丈夫でなかったために学校での風当たりが強かったことは言うまでもありません。学校の先生からは、毎日ますますもって手厳しい扱いと容赦ない言葉を浴びせられ、顔を合わすたびに「お前などは、死んでしまえ。その方がお国のためだ」と言われる始末。とうとう、今で言う登校拒否の状態になってしまいます。

戦時中は、お国万歳、学校の先生は絶対的な存在で背くことなど出来ません。家に帰れば、父親から「そうだ、お前がすべて悪い。先生の言う通りだ。死ね。」と言われ、最後の助けを求めた母親からも、「そうよ、お父さんの言う通りです。」と冷たくされ、本当に死んでしまおうかと本気で考えた日々があり、自分がこの世に生きていることにも疑問を持ち、学校とは何か、親とは何なのか?という思いが大きく膨らんでいきます。

そんな中、当時は東京(渋谷)にも空き地がたくさんあり、学校帰りの広い原っぱで時間を過ごすことが唯一の楽しみで、さまざまな植物の上でイモ虫が元気に動いているのを見ると時間を忘れてしまうほどでした。そのイモ虫に顔を近づけて、「一体何をしているのか?」「何がしたいのか?」「何を探しているのか?」「何処へ行こうとしているのか?」などと考えながら眺めていると、さらに疑問が湧いてきて、無心になって観察する時間があったそうです。

そして小学校4年生の時、赴任してきた鹿児島出身の担任の先生と出会います。そしてある日突然、その先生が日高先生の家に来られ、ご両親を前に「お話があります」と仰ったそうです。

「お父さん、敏隆くんに昆虫の勉強をやらしてください。でないと、敏隆くんは今にも自殺をするかも知れません。」と。当時は、虫の勉強なんかをして何になる…という時代でしたが、学校の先生に言われたとなると、お父さんは二の句もなく「わかりました」と頭を下げて了解されたのだそうです。そしてその先生は、二人っきりになって、じっくりと話をされました。

「敏隆くん、お父さんのお許しが出たから、これから君は思う存分昆虫の勉強ができる。ただ、昆虫のいる場所は、君が見ているあちこちの空き地だけではない。世界にはもっとさまざまな昆虫がいるだろう、地理、そしてその国の歴史、経済も学ぶ必要がある。そして、何よりまずは学校を転校しなさい」と言われたそうです。文部大臣が陸軍大将であったその時代、校長先生も大臣から表彰された実績のあった広尾小学校から離れ、区域外通学をして小学校を卒業されます。中学校、高校にあがると昆虫学、動物学を猛勉強し、大学で専門を学ばれ現在に至ります。

* * *

こうして日高先生自身のお話を思い出してみたとき、今ある日高先生の少年時代を支えたのは、一体何だったのでしょうか。今でも先生はしみじみと思われるそうです。

『昆虫は偉い、ちゃんと自分で葉っぱを食べて生きている。何をしているんだろう? 生き物は面白い。』 山ほど「なぜ?」が詰まっているから、生き物が好き、まだまだ不思議がいっぱいあるのだそうです。

* * *

幼稚園では、「せんせい、なんか不思議なものがあったから来てみて」とお呼びがかかると嬉しくなって出て行きます。子どもたちは、今回ご紹介した絵本に出てくる“ふくろうのアウリーぼうや”のように好奇心の塊で、いつも生き生きしています。そして、子どもたちが何かに、あっ! と気づいたとき、すごい! と感じた瞬間、できた! と、自信を得た時の嬉しそうな表情は、同時に私たちの喜びでもあります。

子どもたちとともに、いつも何かを発見できる、驚きを共有できる存在でありたいと思います。

文章/Ikuko先生