『太陽って なんぼある?』
この『おやまの絵本通信』が始まってから、今年で六年目になります。一年目は『もりのへなそうる』を私は紹介しました。紹介と言っても、幼稚園の先生にその本を読んでもらったという思い出です。ところで、その時には書き切れなかった、同じ先生との思い出が実はもう一つだけあります。それは次のような短いやり取りでした。
先生 太陽ってなんぼある?
(私) 山科の家にいったときもあったで──、
山口の家にいったときかって ───、
北極にも 南極にも あるんやろ──、
先生 屋上にも太陽あるな ───。
(私) 先生 見張りしてゝや ───、
僕 運動場にもあるか見てくるからな!
これは、私の記憶にはなくて、ある時先生が書き留めておかれた一枚のわら半紙で見つけたのでした。その話の前後がどんなものだったのかは、今ではもう分かりませんが、その先生は「太陽ってなんぼある?」という問いかけに対して、私が北極にも南極にもあるとうそぶいたことが、きっと愉快に思われたのでしょう。それで(幼稚園の)「屋上にもあるな──」と促してみたのだろうと思います。私もきっと(この目で見てきて、先生に教えてあげる!) というつもりで、運動場へ駆け出したのだろうと想像します。
もちろん「なんぼある?」と聞かれても太陽は一つしかないのですが、先生は、その太陽がたくさんあるように見えたまなざしや、それを大人に物語ろうとするひたむきさに、子どもの中にある何かに心を動かされて、他愛のない会話だったはずの、いずれは消え去ってしまうはずのものを、詩の形で閉じ込めておいて下さったのだろうと思います。
その詩を読んでいるといつも、同じ、憶えていない声がします。おそらく欠けた部分を補おうとする何らかの記憶の作用なのでしょう。けれども最初は、詩の中にいる男の子が、実はもう一人の私なのだと、それこそあの「太陽ってなんぼある?」と同じような声に聞こえた時には、何とも言えずにうれしく思われたものでした。それはちょうど、幼稚園の時に見た太陽が今もあって、それを「太陽がもう一つある!」と言って驚いているようなものかもしれません。
けれどもそうした思い出の価値をすっかり忘れて、前へ進んでいるはずの自分に虚無や不安を感じた時期、ふとした拍子でそのわら半紙の詩が出てきたことは、今思えばとても幸運なことだったと思います。思い出せなくても、それが憶えていない自分の中には確かにあって、それによって今も支えられていることは、安堵につながります。そのことを、私は先の詩から知り得たのでした。たとえ孤独を感じるようなことがあっても、それまでの自分が空っぽでは決してなかったことを。
あの先生はきっと私も含めクラスの子どもたちの一人一人の目の中に、それぞれの太陽を見て驚かれたのだろうと思います。そのような先生だから、今も思い出されるのでしょう。ありがたい先生のありがたさに気付くには、どうやらすっかり時間がかかってしまうようです。
文章/Ryoma先生