『I am a Bear』
Ole Risom/文、John P. Miller/絵、Golden Press社1967年
親に絵本を読んでもらった記憶はぼんやりとしたもので、当時の絵本が残っていないと何を読んでもらったのか、とりわけ幼稚園時代のことはなかなか思い出せないものです。私の場合、小学校に入ってからは毎晩のように父が物語を読んでくれましたので、その記憶だけが鮮明で、きっと母もたくさんの絵本を読んでくれたに違いないのですが、いかんせん証拠となる絵本がないことと、肝心の記憶がおぼろげなので、思い出したくても無い袖は振れぬ、といったところです。ただ、どういうわけか今の園長室の本棚には表題の一冊があり、この本が残っているおかげで、私は母に絵本を読んでもらったときのことを今も鮮やかにふり返ることができるのです。
この絵本は英語で書かれていますが、そのあらすじは、クマの子が近くの森に出かけ、一日をそこで過ごして夕方家に帰ると、家では母グマが待っている、という単純なものです。見開き二ページにわたって大きく描かれた森の場面には、たとえば「ぼくの住んでいる森にはリスや小鳥がいるよ」といった言葉が添えられるのみです。「この絵本の主役はあくまでも絵なのだ」といわんばかりに、どのページを開けても、あどけない顔のくまの子と森の動物たちが毛の一本一本に至るまで丁寧に表現されていて、大人の自分が手にとって見ても、思わずすばらしい絵に引き込まれます。
実は私が記憶しているのは、そのような絵本の内容のことではなく、この英語の本を母が読むときの癖のことです。母は必ず英文を一度音読し、それからちょっと早口で日本語に訳すのでした。ときおり「えーっと」という言葉が入るので、子どもにとってはじつに間の悪い読み聞かせでした。子どもにとって英語はどうでもよい話なので、「英語は読まないで日本語だけ『ちゃんと』読んで」と頼んだことを思い出します。子ども心ながら、なぜあんな面倒なことをいちいちするのだろう? どうしてゆっくりていねいに(日本語を)読んでくれないんだろう? という疑問が妙な心の澱として残るのでした。
母は子どもたちに英語の特別教育? をしようと思ったわけではありません。じじつ、母は教育に関心はあったに違いないのですが、私は小学校に上がってからも勉強のことで小言を言われることもなく、したいことをしたいようにして育ちました。しかし、母は戦時中の生まれなので、したいことをして育ったわけではありません。とりわけ、勉強に対する渇望は人一倍大きかったようです。ピアノも英語も文字通り独学で学んだと聞いています。結婚後も幼稚園の仕事と子育てで忙しかったに違いないのですが、私の記憶の中では、暇さえあれば鼻歌を歌いながらピアノを弾いていたか、本を読んで何かをせっせと学んでいた後ろ姿が蘇ります。
そんな母のことです。I am a Bear とは、子どもへの「読み聞かせ」の本であると同時に、むしろ忙しい日常の中でも英語に接することのできる──つまり自分の向学心を確実に守ることのできる──「学びの本」であったのではないか、と考えると私にはすべてが合点できるのです(実際この絵本を読むときの母は、英語がちょっと得意な「生徒」のように楽しそうでした)。それは、自分のために絵本の読み聞かせに専念してくれるような母親像とはだいぶ違いますが、そうした母親のおかげで、小学校に入ってからも「勉強しなさい」の一言も言われずにすんだのだと思います(母は苦労して勉強した人間なので自分の学びに夢中で、子どもに安易に「勉強しなさい」とは言わなかったわけでしょう)。
つまり、母の絵本の読み聞かせは、世間で言う模範的読み方とはほど遠かったのですが、その乖離した部分が子どもにとっては自分の自由を保証してくれる「ほどよい距離感」として感じられたのです。もっとも、その自由の中でどんな立派なことをしたかと言われたら答えに窮しますが──小学校の高学年でも空き箱で等身大のロボットを作り、それを頭からかぶって親の前に姿を見せたり、庭のモミジの木に登って西山に沈む夕陽をいつまでも見ていたり──。よくも悪くも私はそんな幼い子だったのですが、両親は何よりも自分たちが人として精一杯生きることで──子どもへの過干渉に陥ることなく──、結果的に子どもの幼さ(好奇心を含む)を損なわずに守ってくれたように感じられます。それはそれで感謝すべきことのように私は思うのです。
絵本を読む親の気持ちは様々ですが、マイナスの気持ちをもって絵本を手にする親はいません。そこには必ず親の「真心」がこもっているはずです。子どものために何かすばらしい絵本を読まなければならないなどと別段気負わなくても、楽しんで読みさえすれば、子どもには十分親の「真心」は伝わるのだ、ということを私は自分の体験をふり返りながらかみしめる次第です。
文章/園長先生