お山の絵本通信vol.83

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『火よう日のごちそうはひきがえる』
 ラッセル・E・エリクソン/作、佐藤凉子/訳、評論社1988年

子供に読み聞かせをするという機会は、これまで私にはあまりなかったのですが、今とりわけ思い出すのは、大学の頃に、田舎で親戚の子供を相手にした時のことです。

私には、田舎に四人兄弟の従兄弟がいます。一番上が私とは五歳、一番下が十二歳ほど離れています。今回は、その一番下の子との一冊を通じての思い出です。

私の田舎は丹後の加悦町というところで、小学校の間は夏休みになると毎年のように帰省していました。そこでの楽しみは二つばかりありました。一つは、近場を流れる川でダムを作ることでした。もう一つは、年下の従兄弟たちの存在でした。その頃は、従兄弟の下の子二人は生まれていないかまだ赤ん坊で、私の眼中には入らず、もっぱら上の子二人と兄弟のように遊んでいました。

当時私は何度も癖を注意される子で、それが悩みの種でした。ところが田舎から帰って来てしばらくの間は不思議とその癖がやんでいるのでした。おそらく田舎で過ごした、ふんだんな、何にもとらわれない時間が、心を落ち着かせてくれたのでしょう。それはありがたい経験であるとともに、もしそれがなかったらどうなっていただろう…とも思います。

私が中学、高校生になると、しばらく田舎とは疎遠になりましたが、再びその季節が巡ってきたのは、私が大学四回生の頃でした。思い返すと当時の私は将来のことで思い悩んでいて、無意識に心のよりどころとなる記憶を掘り返していたようです。そんな時、「あなただけ、田舎に行って来る?」と母が言い出したことにも、思いがけずうなずいたのでした。

田舎の駅に降り立った私を迎えてくれたのは、変わらない叔母さんと、見慣れない二人の子でした。それが従兄弟の下の二人だと分かるのに時間がかかりました。もうその頃は、かつてよく遊んだ上の二人も、とうに高校生と中学生になっていました。そして自分の時間を持っていて、またこちらも遠慮が働いて、それほど遊ぶ機会はありませんでした。ですが、かわって私とよく遊んでくれたのが、下の二人でした。最初は、小学四年生と二年生の時だったと思います。一年目の夏休みはあっという間に過ぎ、「また来てえよ」という言葉がこだまし、それから何年かはまた田舎に帰るようになりました。私が二十歳を少し回った頃でした。

そんなある年の、帰る数日前のことでした。一番下の子と将棋を指して、お風呂に入り、さあ寝ようという時に、その子が「何か読んで」と言うのでした。手持ちには自分の本しかなかったので、そこで、その子の机の棚を見回したところ、「あっ、これ!」と思わず嬉しくなるような、懐かしい題名を見つけたのでした。どうやらその子が図書館から借りてきて、そのままにしていた本だったようです。

すかさず私の脳裏には、小学生の頃に体育館で観て、印象深かった人形劇の思い出がよぎりました。カブトムシの砂糖菓子と、ねずの実のお茶。それが劇では何とも魅力的に感じられた、あの『火よう日のごちそうはひきがえる』でした。

ひきがえるのウォートンは、掃除が好きで、モートンという料理好きのかえると二匹で住んでいます。「どちらも自分の仕事が大好き」な兄弟でした。さて、この話の主人公のウォートンが、モートンの作ったあまりにおいしいカブトムシの砂糖菓子を、おばさんに届けたいと言い出します。穴の外は雪だらけで、非常に危険なのですが、ウォートンはとうとう忠告をふりきって、一人で外に出かけます。ですが案の定、みみずくに襲われ、高い木の上にある巣へと連れて行かれます。

みみずくは、捕まえたかえるに、こうたずねます。

     「名前は?」「ウォートン。」
     「ウォートンねえ。」と、みみずくはいいました。「それより、いぼいぼがいいな。」
     「そんな名前、すきじゃありません。」ウォートンがいいました。
     「すきじゃない? そりゃあざんねんだ……なあ、いぼいぼ!」

と。こんな具合にウォートンとみみずくの関係は険悪そのもので始まります。極めつけは、来週の火曜日はみみずくの誕生日で、ウォートンは自分がその「ごちそう」にされるのだという話を聞かされ、「それまでは何をしていてもいい」と言われます。

ウォートンは最初こそ恐ろしくて何も手をつけられませんでしたが、何とか逃げる手立てを考え、セーターの毛糸をほどいてロープにすることを思いつきます。その間一日一日と逃げる猶予が減っていきますが、脱出の希望を持ったウォートンは、次第に持ち前の明るさを取り戻し、みみずくのいない間に巣の中を掃除したり、夜にお茶を入れておしゃべりをしたり、みみずくが「ジョージ」という名前であることを聞き出したりします。そして、ねずの実のお茶があれば最高なんだけれどと話を弾ませます。

ここまではまるで一つ目巨人に捕まったオデュッセウスのような話ですが、しかしそれとは違って、最初は助けてほしいという思いから始まったことが、だんだんそれ自身が楽しみとなり、いつしか二人の間に友情らしきものが芽生えていくのでした。

しかし、ある日、不機嫌で帰ってきたジョージが、ウォートンに、おばさんに届けるはずのカブトムシの砂糖菓子を要求します。ウォートンはそれを毅然と拒みます。そして、みみずくが無理やりかえるのリュックを開けたその時、ウォートンがそれまでに編んでいた、脱出用のロープが見つかってしまいます。明日はいよいよ火曜日というその晩には、それまでのような楽しいおしゃべりはありませんでした。さて、この後の二人はどうなるのでしょうか…?(この後、二転三転し、見事な筋の解決が用意されているのですが、みなさんはそれをどうお感じになられるでしょうか。)

自分の感動した本というものは、人にその面白さを伝えようと思っても(たとえそれが親戚であっても)、なかなかうまく伝わらないものだと思います。しかし逆に、もしそれが何かの拍子で伝わったとしたら、それは読み手に取っても、何度も読み返したくなる本のように、とても貴重な思い出となるのではないでしょうか。

私も、おぼろげな劇の印象を頼りに、「これ、すごく面白いよ」と請合ってその本を手にしたのですが、二、三年生の従兄弟が果たして本当に気に入ってくれるかどうか、読み終えるまではまったく自信がありませんでした。

薄い本でしたが、それでも100ページあったので、一日ではとうてい読みきれず、途中からその子が眠い目を必死にこじ開けて聞いてくれているのを感じたので、「じゃあ、ここまでで、また明日」と区切ることにしました。そして私も隣の布団で眠りにつきながら、(もしかしたら私に付き合って、我慢してくれたのではないか)という一抹の不安を覚えたのでした。そして、(多分もうこりごりで、明日は本のことには触れてくれないだろう)と思ったりもしました。

そして次の日、私が帰る前の晩のことでした。「ねえ、これ読んで!」と、パジャマに着替えてさっそく布団に潜り込んだその子が手にしていたのは、あい変わらず、昨日の続きでした。私は、その時救われたというか、ようやく(帰る間際になって)その子との心の距離が取れたような気がしたのでした。

それを思い出すたびに、今も胸のどこかがほんのりと温かくなるのを感じます。

文章/Ryoma先生