お山の絵本通信vol.123

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『フレデリック』

レオ=レオニ/絵・文、谷川俊太郎/訳、好学社1969年

子供の頃に読んだ本というわけではないのですが、いざ自分が子供たちに読むチャンスを持つようになって、もし自分が同じ頃に読んでもらっていたら、きっと思い出したであろう、そんな本を探していた頃に見つけた一冊です。

石垣に住む五匹のねずみは、厳しい冬に備えてせっせと食料を集めています。けれども一匹だけ、後ろをむいたねずみがいます。それが、フレデリックです。仲間のねずみたちは、とがめるでもなく、不思議そうに、フレデリックに何度か話しかけます。「どうしてきみははたらかないの?」と。するとフレデリックはこう答えます。「さむくてくらいふゆのひのために、ぼくはおひさまのひかりをあつめてるんだ」と。

さて、雪のページをめくると、今度は、五匹のねずみが石垣の中で冬ごもりを始めています。そこには働いた甲斐があって、食べ物がたくさんあり、会話のはずむ団欒もあります。けれども、冬は思ったよりも長く、たくさんあると思っていた食べ物も、やがて心細くなっていきます。そこで、四匹のねずみは、フレデリックの集めていたもののことを思い出します。「きみがあつめたものは、いったいどうなったんだい」と。

するとフレデリックは石の上に立ちます。そして詩の朗読を始めます。その中に最初に出てきたものは、「おひさまのひかり」でした。目をつぶって、明るい季節を思い出したみんなは、次の朗読に出てくるものを待ちこがれます。詩の力で、次々と思い出から呼び出すことのできた温かいもののイメージが、いわば非常食のようにみんなの心を満たします。その時、一同は、顔を赤らめたフレデリックの「そういうわけさ」という言葉を理解するのでした。こうして五匹のねずみは、希望を持ち、また春を待つことができたのでした。

作者は、フレデリックのことはもちろんですが、四匹の働きねずみのことも大切に描いているだろうと思います。どちらが欠けてもどちらも意味を失うでしょう。持ち寄るものが異なっていても、それを喜んでくれる仲間のいること、それを確認できたことが、五匹のねずみの「めでたし」ということなのかもしれません。

ところで、私がこの絵本のことを書こうとした時に、そのストーリーとあわせて、もう一つ浮かんできた出来事がありました。それは、自分の中の「太陽」というモチーフです。幼稚園の年長児の頃に、「太陽ってなんぼある?」という先生の言葉をきっかけに、私がそれの見える場所を列挙して、あたかも複数の太陽があるかのように面白がったことがありました。そして「僕、運動場にもあるか見てくるからな!」と走り出したのでした。その出来事を、あとで先生が一つの詩に書き残しておいてくれたのです。

それについては以前の絵本通信にも書いたことがあるので、ここでは割愛します。ただ、一つだけ、繰り返し感謝をこめて言いたいことがあります。それは、大人になった私が、その思い出を当時までさかのぼることができたのは、まったくその詩のおかげである、ということです。あの時、先生がおそらく目まぐるしいほど忙しくされている時間の中で、「あ、これは書き留めておかなければ!」と、その一瞬を保存するためにペンを走らせてくれたことがあったからこそ、今でも「そういうことがあったんだ」と私自身も実感することができたのでした。そうでなければ、きっとその出来事は誰にも知られることなく、失われていたでしょう。そして私自身も、その先生が大事にしてくれたようなことをしたいという思いを、その「一つ」の出来事を振り返るたびに少しずつ蓄えていったことが、この職場に来たもともとの理由だったことを思い出しました。

「そういうわけ」で、幼稚園や山の学校の子供たちと交わす言葉の中に、もしキラリとした「おひさま」のかけらを見つけたならば、それを大事に書き留めておきたいと思います。

文章/Ryoma先生