お山の絵本通信vol.132

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『注文の多い料理店』

宮沢賢治/文、スズキコージ/絵、三起商行(ミキハウス)1987年

『注文の多い料理店』は宮沢賢治の代表作の一つといわれます。私は名前だけを知っていて結局読まぬまま大人になってしまいました。初めて読んだのは娘が年長時代のことで、怖い話をせがまれた私は、どこか不気味な感じのする挿絵に誘われるようにこの絵本を本棚から選んだのでした。

絵本の選択にあたり、文学としての原作の魅力は折り紙つきなので、あとは絵が気に入るかどうかです。今調べると複数の出版社からこの作品の絵本が出ています。著作権が切れているので、今ならネットでテキストを自由に読むことができますし、絵心のある人なら何枚か自分で挿絵を描いてオリジナル絵本を作ることもできそうです。ただ、思い出としての絵本の値打ちを知るには、実際の本を手に取ってページをめくるのが一番です。

原作は同名の短編集に収められた一作品です。今回二十数年ぶりに再読してハッとしたのは、「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」という表現です。とびきり怖そうな声でこのくだりを読み聞かせた当時の気持ちが瞬時に蘇りました。こういう擬声語は音読するときに感情をこめやすく、記憶に残りやすいのかもしれません。

こうしていったん時間の隔たりが取り払われると、どのページを開いても、どの絵を見ても、当時の自分が何をどう感じたかとか、この表現を朗読しながらいつもこういうリアクションが返ってきたとか、断片的な記憶が次々に蘇るのでした。ただし、久々に読み返す理由がこうして「絵本通信」を書くためとなると、どうしても読書感想文を書く生徒のような態度で作品を分析しようとする自分がいます。

たとえば、上でふれた「風がどうと吹いてきて」の一行は、はじめと終わりの場面転換で一度ずつ用いられ、何か象徴的な役割を担っているようです。一つの解釈としては、二度の風の音は、俗物根性丸出しの「ふたりの若い紳士」がけっして省みることのない「畏怖すべき自然」の動き(接近する音、遠ざかる音)を表しているのではないか、等。

しかし、この作品はどこかとらえどころなく謎めいていて、何らかの教訓を導こうと思って読もうとしてもつかみどころがなく、あるいは一つの解釈にもとづいて全体を読み返そうとしても、必ず取りこぼした何かに気づかされます。実際、精読するほどに細かな矛盾点──冒頭で「死んだ」とされる猟犬が最後に救いに現れる点など──が気になりますし、それは作者がわざと用意した仕掛けのようにも思われます。ここはいったん細かな詮索は諦め、わからぬものはわからないとして素直に原文のまま読んで味わうのがよさそうです。

それもそのはず。作者自身、この短編集の「序」の中で次のように述べています(<>内は私の補足)。

これらの<短編集の>なかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりの ところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけの わからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

作者自身「わからない」と公言しているものを解釈しても意味がないのかもしれませんが、ではなぜこのような一見すると無責任にも思える言葉遣いをしているのか、そのことについて考えることは許されるでしょう。ヒントは同じ「序」の中にあります。

ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、 ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、 どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。

作者のいう「どうしてもこんな気がしてしかたない」ものを実感するには、やはり本当に山の中に分け入り風の音に耳を傾けるのが一番です。「ふたりの若い紳士」のように、なんでも頭で「わかった」つもりになって安心しようとするのでなく。実際、この作品の読みどころは二人の紳士の「安心」が「恐怖」に変わるどんでん返しのストーリー展開にあるわけです。そう思って、はじめに引用した風の到来に関わる表現をもう一度心の声で読み返してみます。できるだけゆっくりと重々しく。

風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、
木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。          

この言葉に得も言われぬ不気味さを感じるのは子どものほうが得意です。これは私の経験上断言できることです。この一行は大人の読者にとっては、音読でもしないかぎり、つまり目で読むかぎり、その不気味さは伝わりにくいと思われます。あらすじを追いかける速読はもってのほかで、いくら精読、遅読を心がけても、読み手にこの「不気味さを感じる」経験の素地がなければ、何も伝わらないでしょう。ではこの「不気味さ」はどこからくるのでしょうか。その正体は、計り知れない自然の力への畏れに通じるものだと私は考えます。

子どもは自然に近い存在です。たとえば子どもの涙も本当はわからないものに違いありません。しかし、子どもが泣くのは必ず理由があるからだ、というのは大人の理屈で、それが正しいかどうかは本当はよくわからないものです。私が子どもなら、どれだけもっともな自分の涙の理由を説明されても(「おまえはこれこれ云々だから泣いているのだね」等)、そうではないといいたいです。「本当にもう、どうしても泣かずにいられないから泣く」とだけいいたいです。

「なぜこの子は聞き分けがないのか」といった具合に「なぜ」の問いを大人がどこまで追いかけても、正確な答えには辿りつけません。大げさかもしれませんが、子どもに涙一つ流させるのも、怒りで爆発させるのも、空の天気を支配するのと同じ「計り知れない大いなる自然の力」ととらえていけないでしょうか。

人が知識を得て、未知の領域を解明しようと試みることは尊いことです。問題は、知識さえ獲得すれば、不安や恐れのすべてを解消できると過信することだと思います。自然を畏れぬ子どもはいないのに対し、大人の場合は半々です。宮沢賢治の作品は大人の中に眠る子ども心を呼び覚まします。正直にいえば、私はこれまで『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』といった賢治の代表作についても、何度か読もうとして途中で終わったままになっていました。音読せず、あらすじを追おうと急いだためです。今回絵本という形ではありますが、じっくりと賢治の作品を読むことで、その言葉の美しさにふれ、自分の中の子ども心に光を照らすことができたと思います。

文章/園長先生