『イカロスの夢』
イポリット/絵、ジャン=コーム・ノゲス/文、こだましおり/訳、小峰書店2012年
この絵本は、ギリシア神話の「ダイダロス・イカロス物語」に取材した作品です。名工ダイダロスは、息子イカロスとともにクレタ島のラビュリントス(迷宮)に幽閉されますが、自ら発明した空飛ぶ翼によって天高く飛翔し、二人は脱出に成功します。その後の顛末は、「パエトンの物語」──アポロンの息子パエトンは太陽の二輪車の運転を誤り墜落した──に似て、悲劇的です。どちらの物語も、子を思う親心と、自由を渇望する若い精神がぶつかりあう点で共通し、日頃子どもの自由と抑制のバランスに心を砕く私たちにとっても、興味深い視点を提供してくれます。
この本はいわゆる幼児向けの絵本とは趣を異にし、挿絵は全体的に陰鬱で不気味です。それは、クレタ島を舞台に展開する怨念の連鎖の物語を表すのにふさわしいものと言えます。本の扉を開いて最初に目に入るのは、怪物ミノタウロスの怒りを込めてにらみつける顔。ミノス王が海の王ポセイドンを欺いた罰として授かった牛頭人身の息子です。王はまるで臭い物に蓋をするかのように、この狂暴な息子をラビュリントス(迷宮)に封じ込めることにしたのです。
怪物は怒りの叫びを長くあげると、闇の中に
突進していき、青銅の扉が閉まった。
イカロスはその叫び声を聞いて、「理由はちがうけれども、その怒りに共鳴した」と言われます。「天才といわれる父をもちながら、大したとりえもない息子でいることはつらい!」「こんな父親のかげで、ぼくはどうすればいいのだろう?」ひとり自問するイカロスのつぶやきです。
幼児向けのギリシア神話の絵本は、あらすじを伝えるだけのものが大半ですが、この絵本は、ギリシア神話のエピソードを基にして、作者が想像の翼を自由に広げて描いた一つの児童文学です。ギリシア神話の筋書きに沿った展開が──ラビュリントス(迷宮)の建設、王子アンドロゲオスの死、テーセウスによるミノタウロス退治とアリアドネの助力、ダイダロスとイカロスの幽閉と脱出といったエピソードが──、少年イカロスの目にどのように映ったのか、その心に焦点を当てながら丁寧に叙述されていきます。
そもそもイカロスの夢とは何だったのでしょうか。毎日岩の上に立ち、海を見ながら胸に去来するのは、周囲への言い知れぬ劣等感と不信感。父への尊敬と怒り。そのすべてから解放されて自由を得たい。イカロスにとっては、現実そのものが出口のない迷宮なのでした。
このような解釈を暗示した上で、作者は、翼を得て大空高く上昇を続けるイカロスの心が「絶頂点にあった」と語ります。
彼の望みは下界では暗礁に乗りあげたが、ここでは遂げられる。
多すぎる夢をもったイカロスは栄光の極みにあった。
飛翔が彼を高揚させ、自由にし、あらゆる心の苦痛が消えた。
イカロスは夢をかなえたかに見えました。
「もっと、もっと遠くへ」と、ダイダロスは考えた。
「もっと、もっと高く」と、イカロスは目を輝かせてひとり言をいった。
ミノス王の権力の及ばない、遠い異国への脱出を図ろうとする父ダイダロス。それに対し、どこまでも自分の可能性の限界を試してやまないイカロス。二人の別離は決定的でした。高すぎず、低すぎず、「中ぐらいの高さを飛ぶんだ」。父の忠告を忘れたイカロスの心中は、次のように描かれます。
飽くことを知らず、挑戦に酔って、無鉄砲さに押されるようにさらに
高くのぼった。イカロスは地上を忘れ、目まいがするほど彼が渇望する
黄金の太陽と空しか見えなかった。さらに高くあがっていく。こめかみ
が燃えるように熱い。目を焼くのは熱なのだろうか? 暑さが増す。
すばらしい上昇以外のことは何も心配せず、さらにあがっていった。
人間は制約なしに自由を得ることはできません。これは、太陽の存在を否定できないのと同様、あらがえない神々の「定め」であり「掟」です。それに対し、等身大の自分を信じることのできない少年の「自信」と「過信」はいつの世にも、もろくはかないものです。「翼」(自由)をつなぎとめる「蝋」(偽りの自信)を「太陽」(掟)が厳しくとがめます。イカロスの翼の蝋をじりじりと太陽の熱が溶かし始めます。
様々な「不可能」を「可能」に変えてきた天才ダイダロスをもってしても、わが子の「教育」ほど困難な課題はありませんでした。
「イカロス、おりてこい!」ダイダロスは命じたり、懇願
したりした。無駄だった。常軌を逸した息子をどうやって
見つけたらいいかわからず、彼はひとりぼっちだった。
ダイダロスはむなしく息子の名を呼び続けます。「お父さーん!」イカロスの悲痛な叫びでこの物語は終わります。
* * *
「ギリシア神話」は人類の宝ですが、日本ではあまり知られていません。「ダイダロス・イカロス物語」は夜空の星の数ほどある神話のエピソードの一つです。日本の昔話と違って、エピソードの一つ一つが因果の糸で緊密に関係しあい、「ギリシア神話」と呼ばれる物語群を構成しています。
今回ご紹介した絵本は小学生ならひとりで読めると思います。ギリシア神話の入門書は数多くあるのですが、そのほとんどはあらすじを紹介しているだけなので、血沸き肉躍る感覚を味わえません。その点、伝承された神話を独自にアレンジした作品を読むほうが数倍面白く、印象に残るように思います(「ロミオとジュリエット」もその一例)。蛇足ですが、よりオリジナルに近く、起承転結に面白みもあり、今挙げたシェイクスピアを初めとする無数の芸術家がアレンジを試みた作品に、2千年前のローマの詩人オウィディウスの『変身物語』があります(岩波文庫の訳がよい)。小学生向けの読み聞かせに最適です。
文章/園長先生