『お月さまってどんなあじ?』
ミヒャエル・グレイニェク/文・絵、いずみちほこ/訳、セーラー出版1995年
この四月は大きな月をよく見かけました。とりわけ満月は黄色のおぼろ月でした。四月の月がこんなにきれいなものだとは、今のいままで知りませんでした。
今回ご紹介する絵本は、月と動物たちの話です。「お月さまをみながら、いつも」動物たちは月を「たべてみたい」と思っていました。そこで、一番高い山なら、もしかしたら……と思い立ったのが、一匹のカメでした。
カメはだれに命じられたわけでもなく、一人で山を登ります。そして、てっぺんに着くと、もう少しで月に届きそうだと知って、ゾウを呼びます。そして自分の背中にゾウを乗せます。でも、わずかにとどきません。そこで、ゾウはキリンを呼びます。あとから来るものが、先の背中に乗ります。カメは一番下になります。でもその目線からは、わくわくした様子が感じ取れます。
いっぽうの月は、「これはあたらしいゲームだな」と合点して、動物たちを、ひょいひょいとよけます。ただ、一番小さなネズミに油断して、よけるのをやめます。それで、ネズミは月をかじることができます。「みんながそれぞれ、いちばんすきなもののあじがしました」とあります。ここを読むとき、私は月のかけらを「はい、どうぞ」と子どもたちに渡すふりをします。すると子どもたちも手を伸ばし、食べたふりをして、おいしそうに笑ってくれます。
動物たちは肉食も草食もいっしょになって眠ります。いったいどんな夢を見ているのでしょうか。それもまた、読者の数だけあるように思います。
ところで、この絵本には二つのモチーフが描かれていると思います。一つは主体性、もう一つは多様性です。
一つ目の主体性は、主人公はだれかということです。最初のカメでしょうか。それとも最後のネズミでしょうか。あるいはみんなでしょうか。しかし、自分のしたいことをすっかり預けてしまわないといけないようなみんなだと、それはちがうように思います。絵本で動物たちはそれぞれ自立した存在として描かれています。そして月(=それぞれの味がするもの)を目指すことに主体的だからこそ、力を貸すことができました。カメのしようとすることを理解できました。それでこそみんなが主人公と言えるのだろうと、私はこの作品から感じ取ります。
このあいだ、卒園児が幼稚園にきて遊ぶ「山びこクラブ」がありました。五十人がそれぞれ遊びを展開していました。砂場を例にとってみると、三人の一年生が溝を掘っていました。水バケツを運んでくる者、溝を拡張する者、掘った砂でまた補強する者。お互いの声かけに「よし、わかった!」と信頼しあう様子がうかがえました。
また、冬の室内での山びこクラブのことも思い出します。内容はカプラでした。二年生が「天井まで届かせたい」と私に言いました。幼稚園のころには椅子が低くて途中までしか届かなかったからと。その往年の思いを受けて、ダンボールの足場を渡しました。すると苦労の末、「届いた!」と。その瞬間を私も見ましたが、これも主体性の例だと思います。
二つ目の多様性は、月にはそれぞれの味がしたことです。このモチーフに、私は自分が年長組のとき、「太陽ってなんぼある?」と幼稚園の先生にたずねたことを思い出します。「おばあちゃんの家にもあった。北極にも、南極にも」と。すると先生は、「幼稚園の屋上にもあったね」とうなずきます。そこで、私は「お庭にもあるか、見てくる!」と走り出しました。そうやって送り出してくれたことと、出来事を書き残しておいてくれたことを、その先生には今でも感謝しています。先生は、子どもたちの多様性に照らし合わせて、太陽が複数あってもおかしくないと請け合ったのだと思います。
今度この絵本を子どもたちに読むチャンスがあったら、「太陽ってどんなあじ?」と聞いてみようかなと思います。
文章/Ryoma先生