『ふきのとう』
甲斐信枝/文・絵、福音館書店2000年
私が子供時代にしあわせだと感じた時間の一つに、空き地の雑草で遊んだことを思い出します。今ではもうあまりないのかもしれませんが、私が小学生のころにはまだ空き地がありました。そこで友達と待ち合わせる間、カラスノエンドウやスズメノテッポウで笛を作ったり、オオバコの葉でギターを、メヒシバでかんざしを、飽きずこしらえたものです。また季節によって変わる、見慣れない雑草を見つけては、「これは何にしようか?」と空想したものです。
そうした雑草とのはてしないやり取りは、「何かのため」という制約から小学生のころの私を解き放って、心に落ち着きを与えてくれたのだろうと推測します。
『雑草のくらし』(甲斐信枝、福音館書店)という絵本があります。文章量が小学生向けなので、この稿では簡単に触れるだけにしますが、一つの空き地における、雑草の植生の変化を描いた大作です。私たちが見ているようで見ていない雑草の世界を教えてくれます。これを描くために、筆者は五年間、比叡山のふもとの空き地を観察し続けたといいます。
また同じ作者に、『たんぽぽ』(甲斐信枝、福音館書店)という絵本があります。こちらは幼稚園向けです。わたが半分開くまでに三時間かかるそうですが、それを見続けた作者の感動が伝わってきます。そして綿毛がいっせいに飛んでいく絵は圧巻です。
このような甲斐氏の仕事は、『小さな生きものたちの不思議なくらし』(甲斐信枝、福音館書店)で、「対象物への興味と愛情から発して対象に近づき、そのものから受けた驚きや感動を、絵と言葉とによってお子さんに伝える」ことだと語られています。
以下は、そうした作品の中から、私がとくに好きな植物である、『ふきのとう』(甲斐信枝、福音館書店)を紹介します。
みつけた ゆきを おしのけて、
とんがりあたまを のぞかせている
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ
雪間からのぞく淡い緑色。そこから、やがて白い花と黄色い花が咲きます。「めすふき」と「おすふき」です。これらには夏も秋もそれぞれの仕事があります。そして再び訪れる冬。複雑に伸びる地下茎の絵には、植物のたくましさが宿っています。この絵本の英題は“FUKI, JAPANESE BUTTERBUR - THE FLOWER WHICH TELLS THE COMING OF SPRING” (ふき - 春の訪れを告げる花)です。作者のふきに寄せる思いの強さを感じます。
これを読みながら、思い出したことがあります。私が年長児の頃、ふきのとうに夢中になった時期がありました。幼稚園の先生の話かなにかで知ったのだと思いますが、健気に生えてくるところを一度でいいから目撃したくて、母に「探しにいこう」とせがんだのでした。しかし、言い出したときはもう桜の時期で、雪も残っていません。「今はないよ」と母は言いました。それでも一緒に探しに出かけてくれました。確か、山がちの線路沿いだったと思います。見つけたのは、たぶんこれかなという茎と葉でした。「茎はおひたしにできるよ」と母は教えてくれましたが、私は「これじゃない」と言って、しょんぼりしました。かわりに物事には時期があることを学んだのでした。
今でも、ふきのとうと言うと、宝探しのような気持ちがよみがえります。その念願がかなったのは大人になってから、府立植物園に行った時でした。「これがそれだ」と、白い花と黄色い花のかたまりを目にした時、私の興味に付き添ってくれた、若いころの母のことが思い出されました。
はるに なったら おきて こい
とんがりあたまを だして こい
絵本の最後のページは、厳冬の暗い、雪に埋もれた光景です。でも、ふきのとうが隠れているのだ、春になったら出てくるのだという繰り返しに対する期待が、見えなくても、確かなものとして感じられます。
ちなみに、幼稚園の遠足で訪れる府立植物園では、毎年2月ごろに植物生態園というエリアでふきのとうが見られます。その時期になったら、お子さんとチェックしてみてはいかがでしょうか。
文章/Ryoma先生