『いました』
五味太郎/文・絵、ブロンズ新社2013年
人の多い場所で、自分が迷子になったり、または親として自分の子を探しまわったり、というひやっとする経験。だれしも一度はあるのではないかと思います。私も小さいころはご多分に洩れず、デパートで迷子になりました。そのとき、日常の記憶というものがいかにあいまいかを知って(母の服が今日何色だったか、髪型はどうだったかなど思い出せず)、心細くなったものです。
子どもにとって、迷子でないうちは、移動することは冒険です。つぎつぎ場所を変え、どんどん情報を得ます。けれども、戻りかたが分からなくなったとたん、不安に襲われます。はじめの場所はどこ? 手をつないでいたお父さん、お母さんはどこ?……そのような心配のぎゅっと詰まったのが、この絵本です。
表紙にいる、赤い目玉にしっぽの生えているのが、主人公です。その生きものが、「ぶつかりました」「よけました」「まざりました」と、いろいろな「〜ました」を経験します。聞き手も、この小さな生きものといっしょに、ことばのリフレインやバリエーションを楽しみながら、冒険します。
とうとう主人公の子は、両親のすがたを見つけます。向こうも、わが子を目にしてやってきます。「いました」と。
私は、はっとしました。それまで、この絵本はナンセンスを楽しむもの、と思いこんでいたからです。けれどもこの主人公は、はじめから一貫して、一生懸命、お父さんとお母さんのすがたを探していたのです! 書かれていない、「(どこに)いるの?」という心の声に対する答え。それが、題名だったというわけです。主人公の胸のうちをずっと占めていたであろう、不安の大きさを思って、胸がきゅーっとなりました。
あれは、「(知らないおばさんと)ぶつかりました」「(知らないお兄ちゃんたちを)よけました」「(知らない人たちと)まざりました」だったのだなあと。どんでん返しです。さいごは、お父さんとお母さんにはさまれて、「ねました」とあります。冒険のあとのこの安心は、かくべつです。
幼年向けの絵本でありながら、読者の記憶の底に触れるような、どこかなつかしさをおぼえるストーリー。きっと「もう一回読んで」とせがまれることでしょう。そうなれば、チャンスです。アドリブをきかせたり、思ったことを話したり、ことばのキャッチボールを楽しむことができます。そのような親子の会話のとびらとして、この一冊をおすすめします。
文章/Ryoma先生