新年あけましておめでとうございます。
今は「混迷の時代」だとよく言われます。目に見えた勝ちパターンが見えにくくなったという意味でそう言われるのだとすれば、それが確実な時代というのが本当にあったのか、実はそれすら幻想ではなかったかと反省するよい機会ではないかと思われます。今こそ、両目をあけて、自分の人生の前途をよく見定めたい、そのように思います。
未来を背負う子どもたちには、何より一人一人が道なき道を行く勇気あるパスファインダーであってほしいと願います。もはや「正解」のない時代において、限られた正解一つを選ぶ練習に終始していてどうするのか、という素朴な疑問があります。子どもたちには「正解」を鵜呑みにさせるのでなく、自ら問題を発見し解決できるよう応援していきたいと思います。また、その成果を自分の言葉で他者と共有できるように。
山の学校は、「どこよりも効率的に正解を詰め込む場所」ではない、とするなら、何を学び、何に対して一心不乱に取り組むのか。
私は、一人一人が責任を持って考えぬく場所、言い換えれば「答えを覚える」場所ではなく、「物事をとことん考え」、「その成果を仲間と共有する」経験を積み重ねる場所、と答えたいと思います。
知識ではない、この経験こそ、将来責任ある社会人として世の中に貢献できるための基礎的素養になると考えるためです。
本年もどうぞよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
>「物事をとことん考え」、「その成果を仲間と共有する」経験を積み重ねる場所
ということで、私からは2つの取り組みを紹介したいです。
① 自学自習の場
昨年の秋から自学自習の場を設けております。当面は冬学期の授業日に当たる水曜日の18:45~20:00に設定しています。1月4日(月)、1月5日(火)の13:30~18:00の冬期講習の時間帯にも教室を開放します。5日(火)は最初から最後まで私も自習をしに行く予定です。今年は共に学べる場を整備してゆければよいなと思っております。
② 英語読書会
今年は早々にも主に中高生を対象とした英語の読書会を始めるつもりです。英文の構造には規則性がありますが、そこから読み取れる内容にただ一つの「正解」などはございません。詳細は新しいエントリーにてお知らせします。
最後になりましたが、本年もよろしくお願いいたします。
前川です。今年もよろしくお願いします。
古文やラテン語の講読も、同じことが言えます。
それぞれの準備とともに、それぞれの経験を持ち寄ることにより、
より広いものが分け合えると考えています。
古文やラテン語の表層に終わらない、深い学びを目指していきます。
よろしくお願い致します。
前川先生、浅野先生、コメントをありがとうございます。
両先生をはじめ、私が山の学校の先生方からよく耳にする言葉は、「私が、生徒(会員)から、多くのことを学ばせてもらっています」というものです。
表現は違いますが、このブログに書き綴られた日々の授業記録はどれ一つ読み返してみても、上で私が述べたことを実証するものだと胸を張ることが出来ます。
上で紹介したコメンが発せられる理由について、私なりに考察しますと、その理由とは、それぞれの先生方が人間的に謙虚であるという理由だけではなく(^^)、むしろ本質的には、めいめいの先生がご自分の担当される一つ一つの授業について、いつも、本当の意味での「責任」を持って臨んでくださっているからだと考えます。
レスポンシビリティの訳語としての「責任」とは、打てば響くと言うことであり、移動手段で言えば、車を自分で運転するということであります。つまり、電車に乗るときのように居眠りはできない、ということです。
学校や塾の教科書には厳然として「模範解答」があります。どちらがベターという言い方ではなく、我々とは前提条件が違います。
エデュケーションの訳語としての「教育」は、中にあるものを「引き出す」ことであり、宝物は生徒各自の中にあるというのが前提です。一方、日本の教育の場合、「宝」は生徒の側にあるのか、先生がそれを持つのか。答えは明瞭です。先生がありがたい「正解」という宝を持っておられるのだから、授業中は「静かにして」それを恭しく「授からないと」いけない。(だから先生から言えば、「授業」すると言う)。
この場合、生徒それぞれが授かる宝物は同一物のコピーと言うことになる。センター試験にせよ、入試で問われる力とは、そのコピーの精度ということではありませんか?
結局(話術が巧みかどうかの差異はあれども)それを板書するなりして、生徒の頭にインプットするプロセスで言えば、人間的と言うよりもあまりにも機械的であり、私が今生徒であるとするなら、そんなやり方で、授業を聞くのはどうしようもなく「退屈」であると確信します。
少なくとも、今の日本式教育では「質問」は歓迎されないでしょう。だから、英語が話せないのではなく、チャンスがあっても、日本語も話せないし、書けない。
それに対し、山の学校の先生たちにお聞きしたい。「質問」は大歓迎ではありませんか?生徒(会員)の質問やコメントを通し、自分自身の視野が広がることを認識し、それを喜びと感じる故、冒頭で紹介した「自分が学ばせてもらっている」というコメントにつながるのだと私は理解しています。
この手のことを書くときりがなくなるので、いったんキーをとめます。