以前、山びこ通信に書いたテーマですが、覚え書きとしてここに記しておきます。
学校とは何か?と問うとき、「試験のない学校」は考えられないと人は言うでしょう。しかし、山の学校には試験はありません。成績表もありません。
学校とは何か?と問うとき、「生徒を見つめるまなざし」なしに、学校は考えれない、と私は考えます。しかし、今の学校において、どれだけの先生が、生徒一人一人の顔を見つめ、個々が胸の内で抱く思いに心を砕いているでしょう。はなはだ疑問です。
山の学校が学校として胸を張ることができるのは、その一点です。すなわち、一人一人の先生が(小1対象のクラスから社会人対象のクラスに至るまで!)個々の生徒(会員)の身になり、まさしく親身に教えている、という事実に私は誇りを持ちます。
これは口先だけの台詞ではなく、それが本当かどうかは、このブログの過去の膨大なエントリーをつぶさに読んでいただくと「一読瞭然」だと確信いたします。
私たちの取り組みはスペシャルなことであってはいけない、と思います。これが日本の教育のスタンダードであってほしい、と私は願います。
教育とは「教える」ことではありません。それはどういうことか?
長くなるので、以下は興味のある方だけご覧ください。私的メモです。
もし、「教育」が educationの訳語であるのならば「教育は教えることではない」。なぜなら、educate とは、生徒の可能性を「引き出す」(ラテン語で educo )ことを意味するから。
「宝」は先生の側にあり、それを生徒たちに「授ける」というのが日本の教育観ではないか。しかし、明治以降に「真似」をしたヨーロッパの教育のルーツをたどると、ベクトルは正反対であった。
すなわち、「宝は生徒にある」。その宝を生徒が発掘する。それを先生は側面から支援する。これが educate ということ。(プラトンの産婆術参照)。
宝が先生の側にあるとするか、生徒の側にあるとするのか。
山の学校は後者の考えを先生間で共有している。
学校をはじめ、一般の塾はすべて、前者の立場をとる。バランスをとるなら、家庭が認識を改めないといけない。でないと、子どもたちは四方八方、前者の価値観以外接することがない。
(この件に関しては、家庭が防波堤であるべきだ。一方心ある先生もレジストすべきだ。正解を教えた後、いくらでも別解があることを示し、生徒の様々な解釈を歓迎する。「なるほど、そういう考えもあるのか」と言う一言が生徒を救うこともある)
だが、一般の家庭では何と子どもに言うのか?
「先生の言うことを聞きなさい」とだけ言わないか。
それは間違いではない。だが、バランスをとるなら、「自分で考えなさい」と付け加えるべきである。
(ちなみに、幼稚園では俳句を全員に暗唱させるが、それで終わりではなく「きっかけ」なのである。黙っていても、子どもたちは自作の俳句を作って持ってくる。それを皆の前で紹介する。暗唱と創作のバランスはとろうと思えばとれる。)
どうして、今の子どもたちは、言われたことしかしないのか。不思議で仕方がない。
言われた以上のことをする子どもはいないのか。どこにいるのか。低学年、幼稚園児なら、いっぱいいる。いつの間に子どもたちの好奇心はシュリンクするのか。
実際、今の大学生は、目を輝かせて学んでいるのか。それが生き生きとできているのなら、私はこのような文章を断じて書かないし、山の学校もやらない。
>親身に
これ以上に山の学校の先生の個性を言い表す表現を知りません。年齢的には「親」というより「お兄さん」というのが適切でしょうが。
>今の子どもたち
もちろんひとくくりにするのはよくありません。「今の学校」、「今の先生たち」・・・という表現も同様です。ただ、2月の文藝春秋を読むと、京大と東大の総長が対談していて、京大の総長曰く、「今の学生は伸びきったゴム」なのだそうで、やはり憂慮すべき問題がそこにある、ということはある程度言えるのではないでしょうか。
もちろん、山の学校の先生を含め、「例外」と言える学生さんはいっぱいいることでしょう。そういう人たちと「小さいときに何をして遊びましたか?」等お尋ねしていると、私が日頃温めている考えが裏付けられると思うことが多いです。
それはさておき、京大や東大の総長先生が肩をすくめるのは自由だとして、質問したいことは、「大学に入ってからゴムが切れかかるのか?」、あるいは、最初から、「切れかかったゴムを入学させたのか?」です。
いずれにせよ、大学の責任は大きいと言えます。
前者なら、大学の教育が悪いということになりますし、後者なら、なぜ「切れかかったゴム」とわかっていて入学を許可したのか?その責任が問われることになります。このことを両総長先生には申し上げたい。
また、教育に関わる多くの人たちには、どうすれば「弾力のあるゴム」のような受験生と「切れかかったゴム」のような受験生を区別できるのか?また、当然のことながら、どうすれば10代のこどもたちのゴム(知的好奇心、学ぶ力)の亀裂を阻止できるのか?そのことを社会全体で真剣に考える必要があると思います。
ちなみに、このゴムの比喩は私が10年以上前に書いた原稿で使っています。
<才能という言葉>
才能があるとかないとか言います。才能は誰にでもあると思います。そして才能には無限の種類があると思います。英語では、才能のことをgiftともabilityともいいます。天から与えられた「贈り物」とは、何かを行う「可能性」として各自に備わっているわけです。
したがって「私には才能がない」という言葉は、英語に直せば「私には何もする可能性が与えられていない」と口にするのに等しいのです。逆に言えば、何でも他人にしてもらうことを期待し、自ら主体的に行動する習慣が身に付かないと、「私には才能がない」と感じる可能性は高まるかもしれません。
繰り返しますが、人間には無限の才能が与えられています。もし、特定の才能だけを伸ばすことが教育の目的であると信じられたなら、その結果、伸びきったゴムのような生徒が増えるのは当然です。
一本のゴムを無理に伸ばせばすぐに切れますが、3本、4本とたばねていけば、容易に切れるものではありません。「好奇心」とは、このように多くの種類のゴムを伸ばそうとする態度をさすものといってよいでしょう。
伸ばしたゴムの「長さ」だけを問題にするのなら、特定の一本のゴムに注目し、それを伸ばした方が、早くしかも長く伸ばすことは容易に出来ます。
一方、複数のゴムを同時に伸ばそうとすれば、引っ張る力はたいへん大きなものになります。では人間は、この抵抗感を苦痛と感じるのか、喜びと感じるのか。筋肉トレーニングに励む人がそうであるように、人間は徐々に負荷を高めることに喜びを見いだすようにできていると思います。
教育とは、この知的筋力、すなわち「好奇心」を鍛え、活性化させることを目的とするものであり、その結果得られるものは、弾力のあるしなやかな知性です。
しかしながら、昨今行われる入学試験は、知識の多寡で勝負が決まります。物差しを当ててゴムの長さだけを測定するものです。それが伸びきったゴムか、弾力のあるゴムか、だれにもチェックできません。ここに今の教育の大きな落とし穴があるように感じます。
大学に入り、好きな学問が出来ると目を輝かせる学生がどれだけいるのでしょうか。
私の感想を申し添えれば、自分の才能の多い少ないを問題にするよりも、むしろ知性の弾力をチェックすべきだと思われます。そして万一一本のゴムひもが伸びきったところで、人生をかけて伸ばすことの出来るゴムひもは無数にある、ということです。