山下太郎
「ことば」の小1 クラスでは、子どもたちに親しみのある俳句や絵本、紙芝居を紹介しながら、「楽しく言葉にふれること」をモットーにしています。
初めに新しい俳句一首を紹介し、全員でこれを繰り返します。何度も声を合わせて復唱していると、ちょうど音楽の歌詞を覚えるように、誰もが自信をもって暗唱できるようになります。
腹の底から声を出すと自然に大きな音になりますが、街中とは違い、山の緑がどこまでも優しく包んでくれるかのようです。「今の(大きな)声、山のてっぺんまで聞こえたかな?」――いつも、誰かが得意そうにこの台詞を言います。気心の知れた仲間と一緒に俳句を朗唱する経験は、大人になってから、山の風景と共に懐かしく思い出すことができるでしょう。
俳句の次は、絵本と紙芝居の時間です。日本の昔話やグリムやアンデルセンの作品をアレンジした絵本や紙芝居を選んでいます。絵本1 つと紙芝居1つでちょうど時間いっぱいになります。
俳句を通して「言葉」のもつ美しさやリズム感を感じ取ることができるとすれば、絵本や紙芝居の読み聞かせを通し、子どもたちは「物語」の楽しさに触れることができます。起承転結のついた物語展開に何度も何度も接することによって、物語の「先を読む」能力が着実に形成されていきます。
この点、テレビやビデオでは、立ち止まって先を読む必要もなく、また、その「考える」時間さえ奪われているので、これらのメディアに接すれば接するほど、子どもたちの「先読み能力」は乏しく貧弱なものになっていきます。
このようなわけで、私は絵本や紙芝居を読む際、新しいページや場面に移る前にいったん話をとめ、「次はどうなるでしょうか?」と期待を持たせるように合いの手を入れるようにしています。すると、あっちからこっちから、「次はこうなるんやで」、「いや違う、こうなるはずや」とめいめい私に「教えて」くれます。こうして期待のボルテージが最高潮に達した段階でページをめくると・・・子どもたちの期待通りに展開すればそれはそれでよし、まったく予想を裏切る展開になっていたとしても、それもよしです。
余談ですが、今ふれた「物語の先読み能力」は、学校教育において、とくに国語と英語の学習において、後々計り知れない恩恵をもたらします。たとえば、この能力が豊かに備わった生徒は短時間で要点を見抜く力、速読力に長けており、国語や英語の長文読解を苦にすることが少ないものです。しかしそれを培う原動力は、何より各家庭での会話や「読み聞かせ」の習慣――子どもではなく保護者がその鍵を握っている――にほかならないことをここに強調しておきたいと思います。
意外に思われるかも知れませんが、小学校に上がっても、子どもたちは親に「本を読んで!」とせがみます。これは「甘え」ではありません。まだ、「先読み能力」の未熟な子どもたちは「言葉の授乳」を渇望しているのです。このとき、色々な理由をつけて「自分で読みなさい」と突き放すのは子どもにとってかわいそうなことです。
いずれ、「先読み能力」に自信が持てるようになれば、放っておいても一人で本を読むようになります。それが身についていない段階で「自分で読みなさい」、「たくさん読みなさい」と言うのは、酷なことなのです。乳児への授乳を「甘やかし」と称する人はいないように、子どもへの読み聞かせの習慣は、いかなる教材、いかなる教育メソッド――私の授業も含む!――にも勝る最高の教育なのだと私は思います。
さて、前回の「ことば」のクラスでは、アンデルセンの『人魚姫』の絵本(いわさきちひろの挿し絵が美しい)を読みました。私自身この作品の正確なあらすじはすっかり忘れていたのですが、読み進めるにつれ、子どもが理解するにはたいへん複雑な筋の展開になっていることに気づきました。最後に人魚姫が泡となって消えるところまで、正確に筋を覚えている大人は意外に少ないのではないでしょうか。
ところが、一人の女の子がこの話をよく知っていて、ページをめくるときに「これは次にこうなるのよ」と合いの手を入れ、筋の展開を正確に言い当てたのには驚かされました。また、その女の子の話しぶりを他の子どもたちも静かに聞き入っていたのが印象に残っています。このような子どもたちの様々な合いの手――紙芝居の大蛇の絵を見て、「せんせー、あんなー、ぼくきのう、へびみたでー」等も含む――は、そのどれもが快い「場」の空気を作り上げ、絵本や紙芝居の魅力を全員で余す所なく分かち合う上で、不可欠のスパイスになっています。
(2005.6)