山下 一郎

この4月から、ことばの教室の1、2年生を担当しておりますが、1学期の開始前に、「ぜひ、“俳句”を指導内容の一部に取り入れていただきたい」との、園長先生からの要望がありました。

これは、かつて私の園長時代、“朝のお集まり”の際に“黙想と俳句”を通して、幼児たちと長年ふれあってきました経験を、山の学校でも活かしてほしいとの主旨によるものと思われます。

したがって、“俳句を”、ということは、その前に行う、みんなで静かに眼をつむる“黙想”と一体をなしていますので、先ず、─黙想について─触れておきますと、意外なことに生徒たち、幼稚園の頃には毎朝のように行ってきた、“落ち着いて目を瞑る”、“みんなで俳句をそらんじる”という、じゅうぶん馴染んでいたはずの一連の行動が、なぜか、初めのうちはスムーズに運ばないのです。目を瞑ること一つ、満足にできません。

数十人の月組園児が一堂に会した折りには、きちんと出来ていたものが、わずか数人の、しかも小学生にできないのです。この集中力のなさは、いったい何なのだろう?これでは、せっかくの園長先生の期待にも添えないなと、しばらく戸惑っておりました。

しかし、よくよく考えて見ますと、園時代の黙想なり俳句は、朝の新鮮な気分のなかで、程よい緊張感を伴いながら行ってきました。ところが生徒たちの場合は、学校生活のあとの疲れを背負いながら、山道を古巣の幼稚園へようやく辿りついて、いわば、家へ帰ったとたん、カバンを放り出して親に甘えたい気分、といったところなのでしょう。そこへ直ちに、静寂を求めることが、そもそも無理であることに気づきました。

そこで、生徒たちの緊張感と疲れをほぐすために、席に着くと同時に先ず、“おしゃべりタイム”を設けることにしました。学校での出来事や友だちのこと、楽しかったこと、困ったこと、何でもいいから順番に話して貰います。“公認のおしゃべり”ですから、お互いに話がはずみます。

みんなが一通り話し終えて、気持ちが発散したところで、「話すときは、思い切り楽しく話そうね。目を瞑るときは思い切り静かに目を瞑ろう。これが、幼稚園のときによく言っていた“けじめ”だね。目を開けたくなったり、おしゃべりしたくなったら、それは自分に負けることだよ。じゃあ、背筋をしっかり伸ばして、いい姿勢で、目を瞑りましょう。」と、園時代と同じ口調で促しますと、生徒たちもまた園時代の気分に戻って、むしろ当時よりも長い間黙想することができるようになりました。

同じ効果を得ようとしても、常に同じ方法を用いるだけでは良い結果が得られないことを、改めて学んだ気がいたしました。

―俳句について―

園時代、さいしょの一と月、二た月は、一つの俳句を全員が完全に覚えるのに一ヶ月はかかりました。そこへいきますと、さすがは小学生。4月の第1回目、幼稚園でしていたと同じように、新しい句を5回繰り返しましたところ、一人の生徒が「はい、覚えた」と即座に手をあげたのです。これには驚きました。当てますと、

てのひらに 落花(らっか)止まらぬ 月夜かな 水巴(すいは)

と、ちゃんと言えるのです。「これは、以前とは少々勝手がちがうぞ」と、試しに1週間たった2回目にもまた、

花散りて また静かなり 園城寺(おんじょうじ) 鬼貫(おにつら)

の新しい句を与えましたところ、同じく「はい、覚えた」です。そればかりか、他の生徒たちもかれに刺激を受けてか、つぎつぎに手を上げるといった具合です。

それからも、毎回のように新しい句を与え、常にそれまでの句のおさらいをするのですが、“てのひら”とか“花”とか、頭をチラといっただけで、目を輝かせてあとをつづけるのです。

その様子には、「園児のときとは違うんだよ」といった、小学生としてのプライドさえ感じられ、生徒たちの卒園後の成長と、学習に対する気構えの備わってきている様子が、頼もしくうかがわれたことでした。

さらに、生徒たちと俳句をしていて一段の成長を感じましたことは、幼稚園では、一方的に句の内容を園児たちに解説していたのですが、生徒たちの場合、句によっては、語句の解釈や、ちょっとしたヒントを与えただけで、あとは句の意味や情景を、自分たちで掴み取ろうとする意欲が見られることです。

例えば、

じっとして 馬にかがるる 蛙(かわず)かな 一茶

この句のときも、「“かがるる”というのは、“嗅がれる”ということで、匂いをだれかに嗅がれることだよ。この俳句では、だれが、嗅がれるの?」
「そら、蛙や」
「じゃあ、だれに、嗅がれるんだろう?」
「馬や!」
<だれ“が”?><だれ“に”?>の“が”と“に”、の意味の使い分けが、ちゃんと出来るのです。

「わかった。馬にかがるるやろ。そやさかい、じっとしてるのは、蛙いうことやな。」
「ちっちゃな蛙が地べたでじっとしてるし、これ、何やろ思うて、お馬さんが蛙のとこへ首持っていって匂い嗅いだ、いう俳句やろ?」

またあるときは、

やがて死ぬ けしきも見えず 蝉の声 芭蕉

「“けしきも”というのは、“ようすも”、ということだよ。だから、死ぬという様子も見えない、つまり、もうすぐしたら死ぬということも知らんと、ということね。じゃあ、死ぬことに気が付いていないのは、だれ?」

「蝉や。蝉は地上で1週間しか生きられへんのやで」
「もうすぐ死なんならんのに、蝉はそんなことわからへんさかい、元気いっぱいないてるのやなあ」
だれかがそう言ったあと、窓の外の耳を聾するミンミン蝉の声に、なんとなくしんみりと聞き入っている生徒たちでした。

(本園で、創立当初より、保育の一環として黙想と俳句を取り入れてきました動機と狙いにつきましては、北白川幼稚園ホームページの、園主だより「幼児と俳句」の項に詳述しております。)

“黙想と俳句”をすませたあとは、通常、お楽しみの、-お話と紙芝居-の時間です。

“話”の方は、“絵本の読み聞かせ”であったり、何も持たない“素ばなしの童話”であったり、生徒たちが1ページずつ分担しての“絵本の読み合わせ”であったりと、時によって趣向は異なります。

内容につきましては、できる限り、幼少期に受けた感動を、いついつまでも心の中に持ち続けて、それが、人生の折り折りの生きる支えとなったり、行動の道しるべとなってくれるような、そのようなテーマのものを選ぶよう心がけております。“紙芝居”の場合も同様です。

これからも、“黙想”を通して、集中する力、静寂を楽しむこころ。“俳句の暗誦”や“話と紙芝居”を通して、聞く力、考える力、感じる力、想像する力、そして自然に眼を向け、いのちに眼を向けるこころをも育ててまいりたいと思っております。
(2004.11)