福西 亮馬
小学生のかずクラスは、1~2、3~4、5~6年の学年ごとに分かれて学習しています。なるべく薄いドリルを使用して、一冊ずつその達成感を味わいながら取り組んでいます。
一般に「子どもにドリルをさせる」というと、ネガティブな印象を持たれてしまいそうですが(私自身、最初そのように思っていましたが)、ドリルを一冊終えた生徒が、「私はこれを終えた」という自信に胸を張っている様子を見ると、案外それが大人の空想であったように思われます。
最近、驚いたことがありました。それは、次の新しいドリルをもらった1年生の生徒が、お迎えの時、お母さんにささやいた一言にでした。それまでのいきさつを述べると、市販でいいドリルが見つからなかったので、手作りのドリルをいくつか渡していました。それもなくなりかけていた頃、お母さんには「(残りページが少なくなって)あんまり宿題ができませんが、今週はちょっとセーブしておいてください」と声をかけておいたのでした。
そうして、次の週、ようやく見つけて買ってきたドリルを渡しましたのでした。その生徒はさっそく頭の体操とばかりに、みるみるページをくっていきました ──。「がんばったねえ」とまた、玄関口で私はその生徒に言葉をかけました。そして「…何かご褒美ないかなあ」と思わず言いかけてしまいそうになったのでした。けれどもその生徒は、お母さんの前に行くと、そっと手提げかばんの中からドリルを覗かせて、ささやき声でこう言ったのでした。「帰ってから、してもいい?」と。
私は、普通ならこの逆なのになあ…と心から感心しました。そしてお母さんが何と答えるのだろうと思って耳をそばだてました。すると、「…ええ、でもごはんを食べてからね」とやさしく言われたのでした。そしてその言葉の余韻から、きっとご飯の後のお手伝いをした後に、ドリルをすることになるのだろうなあという雰囲気が伝わってきました。
その絵のような会話を聞いていると、私まで幸せな気持ちになりました。そしてこの時期には本当に何のご褒美もいらないのだなあということを、はっと考えさせられました。「できなかったことが、できるようになった」そのこと自体が、いわばご褒美なのです。そのように実際、低学年の頃は、むしろ新しい刺激を求めるように、積極的にドリルに取り組む姿が見られます。それは幼稚園時代に期待していたことが、ようやく解禁になるからだろうと思われます。
さて問題は、高学年になるにつれ「新鮮味が薄らいで来る」という点ですが、それには誤解があるように思います。というのは、もしそうだとすると、1年生のうちにすべてを習ってしまったことになるからです。けれどもそのようなことはないでしょう。どの学年にも、新しく学ぶことがあります。従ってそのつど新しい期待がともなうはずですが、それでもいつの間にやら算数は、「何が一番好き?」とたずねるよりも「何が一番嫌い?」と聞いた方が早く出てくることになってしまいます。
あんなに最初はワクワクしていたのに…徐々に期待通りのものでなくなっていくのだとすれば、それはなぜなのでしょうか。中には「本当に算数なんて期待はずれだった」と言ってつっかかって来る小学生がいるのかもしれません。ですが、私にはそれはどこか真剣に努力した人の言葉ではないように聞こえます。
当時の自分を思い出すと、やはりそこには自分にしか知られない(人にはそと見がんばったと見せかけられる)葛藤があり、「いつでも勉強できる」という環境の上であぐらをかいた、怠け癖があったように思います。もし世の中に片手間でやって面白く感じられるものがあるとするならば、それは本当に面白いものなのだろうか…勉強というものはそれでいいのだろうかとも思います。
私はやはり何よりも、生徒には、しんどさと喜びとがセットであることを教えなければならないと思います。そのために、積み残しが出はじめる中学年・高学年の時期は、一緒にドリルに付き合わなければならないと思います。そして一個一個、「できなかったことが、できるようになった」という鍵を開ける喜び──それは何年生になってもあるはずのもの──を掴み取るところまで、一緒にいたいと思います。(文責 福西亮馬)
(2006.7)