福西 亮馬

「教科書。教科書をやればいいんですよ」

最近、ある生徒がこう言ったのが耳に残っています。私は、彼が「とうとう極めてきた」と思いました。そうです。前から言っていたことなのですが、定義や、定理の証明は、教科書に一通り書いてあるのです。しかも体系的に書かれているので、効率よくおさえることができます。そのかわり反比例したように無味乾燥です。それでも、彼は教科書の方を選んだわけです。

教科書は内容が不十分なのではありません。本当はその理解が不十分なのです。そのことに気付いて教科書まで戻って来れる人は、実際、学校での授業時間(一日の勉強でおそらく一番大きな割合を占める時間)をフィードバックすることができます。教科書を閉じたまま試験前になってあわてて問題集とにらめっこする人と、教科書のどこに何が書いてあるかを覚えてから問題集にあたる人とは、ちょうど人工衛星から情報を得られる車とそうでない車とくらいの違いがあります。

「教科書」と言った彼はまた、学校で微分や積分を習い始めたことを嬉しそうにしていて、数学の教科書を自分で予習しているとも言っていました。そして黒板にx2 の微分が2x であること、x3の微分が3×2 であることを、導関数の定義から導いてくれました。そうした彼の生き生きした話しぶりに触れながら、私も「高校になったら微分を習える」と憧れていた頃が思い出されたのでした。

高校生の時の私は、彼のように公式を導こうとも思わず、(教科書の結果だけを)ただ暗記していました。あの時教科書を自分から開いていれば、もっと血の通った理解ができたはずであることを、大学に入ってから気付きました。ですから今の時点で、「教科書をやればいいんですよ」と言える彼には、頼もしさを感じます。彼は数学が好きな生徒ですが、その好奇心がいつまでも伸びていってもらえることを願ってやみません。

さて、これまでは『数の世界』という看板で、主に数学の動機付けを行ってきたクラスですが、冬学期からはさらにギアチェンジを図り、高校数学(それ自体が数学全体の基礎でありますが)の基礎に目を配ります。そして一般に「ひらめき」と言われるものが、実際は基礎の反復練習から必然的に生じるものであることを納得してもらおうと考えています。

(2005.11)