Dum docent discunt.(人は教える間、学んでいる)というラテン語があります。英語では、To teach is to learn.(教えることは学ぶこと)と言われます。子どもたちに、あるいは学生に教える仕事を少しでもすれば、誰もがこの言葉に共感できると思います。

自分は教えるのではなく学ぶ立場だと思っている人は、友人関係の中でこの言葉の意味を考えてみてもよいでしょう。

友だちに何かを教えて喜ばれると嬉しいものです。少しでも丁寧に説明しようとして、無意識のうちに真剣に言葉を選びます。その結果、相手にとってはもちろん、自分にとっても新しい言葉の発見が得られたり、逆に知識の不足に気づいたり・・・。いずれにしても、自分にとっての「学び」につながります。

一方、子を持つ親にとっても、表題の言葉は意味を持ちます。子どもの教育を通じて親も成長すると言われますし、事実そうだと思います。子育てを通し、親は人間としての己を見つめ、自分が大切に思う価値を再評価する機会を得ます。

「教える」という言葉を使うとどうしても学校の教育を連想しますが、今述べたように、自分が大事だと思うことを他人に「伝える」という意味でとらえるなら、日常の至るところで「教え、学ぶ」関係は見られます。

これは、いわばアウトプットとインプットの関係です。息をしっかり吐ききるとしっかり吸い込むことができるように、蓄えた知識や知見を外に出しアウトプットすればするほど、逆に学ぶ力、すなわちインプットの力も大きくなります。

学んだことを他者に伝える方法にはいろいろありますが、私は「話すこと」だけでなく、「書くこと」に注目したいと思います。「話すこと」の意義は言うまでもないのですが、自分を高めてくれるよい話し相手がいつも見つかるとは限りません。それに対し、「書くこと」は、自分自身がいつでも「読み手」になれるという利点を持ちます。

例えば、授業であれ、読書であれ、他者から学んだ内容を自分の言葉で要約し、意見や感想をそこに書き加えます。この言葉の記録は、日を置いて読み返すことができます。つまり、文字を仲立ちとして「書き手」の自分は「読み手」の自分を「教えること」が可能となります。言うなれば、「教え、学ぶ」関係が自分の中で実現するわけです。

文章を何度も練り直すことを「推敲」と言いますが、人は真面目な表現者であるかぎり、よりよい表現を求め、四苦八苦するものです。言い換えれば、「書き手」の自分は「読み手」の自分の美意識を満足させようと懸命になることができます。同様に、人は真摯な「学び手」であるかぎり、「教え手」としての自分に無数の問いを発します。知的好奇心が健全に輝く人ほど、曖昧な答えに納得したり、簡単にわかったふりをすることはありません。

では、このような独学のスタイルが理想的な学びを保証するのでしょうか。私はそうは思いません。今述べたのは、学びの下地としては立派ですが、独善に陥る危険と紙一重です。『論語』の冒頭には「朋遠方より来る、また楽しからずや」とあります。私は、向学心のある「学び手」同士が集い、互いに「教え、学び」あえるなら、それに勝る環境はないと考えます。実際そのような場では、先生も生徒も、出会った者同士が互いに切磋琢磨し、高みを目指して努力することができるでしょう。
山の学校はいつもそういう場所でありたい、と願っています。
(2009.11)