「三つ子の魂百まで」をめぐって――深く考え、豊かに感じるために――

山下太郎

『星の王子様』(サン=テグジュペリ)を持ち出すまでもなく、常識や先入観にとらわれると、幼いころには当たり前に持っていた好奇心を失う恐れがあります。空はなぜ青いのか?雲はなぜ落ちてこないのか?風はどうして吹くのか?誰もが一度は考えたことのある疑問だと思います。でも、これに対し、常識が耳打ちします。「そんなことを考えてどうするのか?」と。アインシュタインは「聖なる好奇心を失うな」(never lose a holy curiosity)と喝破しましたが、好奇心は常識の前ではあまりに非力です。

ここで、学校教育に目を移すと、試験で出題される内容はすべて正解のある「常識」ばかりです。試験の結果を見れば、どれだけ「常識」を知っているかの参考になるかもしれませんが、一人一人がどれだけ「好奇心」を輝かせているのかは誰にもわかりません。しかし、実際に大学や社会で試され求められるのは、そんな「常識」のバロメータでしょうか、それとも「好奇心」(とそれに付随する向上心)の輝きでしょうか。私は後者だと考えます。もちろん、人によって答えは様々でしょう。しかし、「好奇心」を否定する意見は少数派だと思います。また、そうあってほしいものです。であれば、なぜ大人は(最近は子どもも?)繰り返し口にするのでしょう、「そんなことを考えてどうするの?」と。

司馬遼太郎氏は、中学校時代、英語が嫌いでした。授業中に「ニューヨークとはどういう意味ですか?」と先生に尋ねたら、「そんなばかな質問をするな」と叱られたからだとか。むろん司馬氏は、「New York =ニューヨーク」といった単なる言葉の言い換えではなく、ニューヨークを「新しいヨーク」と訳して初めて気づく言葉の歴史に興味を持ち、上の質問をしたわけです。図書館に足を運び、この地名の由来を調べていくうちに司馬氏は確信します。「知識は教師に与えられるものではなく、自分で調べて獲得するものだ」と。

言うまでもなく、この確信を支える根っこには、司馬氏の強い「好奇心」があったわけです。あふれる好奇心は強力な磁石のように知識を束ね、創造に結びつけるでしょう。逆に、「好奇心」を欠いたままその場しのぎの「知識」をいくら詰め込んでも、それだけでは創造は生まれません。

ではこの大切な好奇心をどうやって育てればよいのでしょうか。私は好奇心は育てるものではなく、守るものだと思います。子ども時代に好奇心に輝いていない子は一人もいません。その好奇心が輝きを失わないために、周囲の大人がこれを尊重するのか、常識をふりかざすのか。子どもが何かを問うたとき、すぐに答えを教えることがよいとは限りません。そんなときには、「よし、いっしょに考えてみよう」とじっくりそばに寄り添うことが大切です。そうすれば、子どもたちは時間をかけてものを考えるようになるでしょう。

最後に、表題の「三つ子の魂百まで」について一言。この表現は、辞書的には「三つ子の魂<は>百まで」と読むべきですが、私は本文の趣旨に即し、「三つ子の魂<を>百まで」と読み替えたいと思います。そして「三つ子の魂」とは人間の尊い「好奇心」そのものである、と。願わくは、世の子どもたちが、いつまでもあふれる好奇心を輝かせ、言葉や数字の精妙な配列にも自然の息遣いにも心を動かし、深く考えることと豊かに感じることの喜びを生涯の友としますように。
(2009.3)