山下太郎
ノーベル賞を受賞した益川先生によると、今の日本は「教育熱心」ではなく、国を挙げて「教育結果熱心」である点が問題だと言います。「結果」に一喜一憂していては勉強が面白くなくなる、というのがその主張の骨子です。「結果熱心」ということで言えば、「収穫を問うなかれ」という曾国藩(1811-72)の言葉を連想します。この言葉は「ただ耕耘を問え」と続きます。収穫、すなわち結果はどうでもよいというのではありません。結果を気にする前に「耕耘」、すなわち日々の努力を大切にせよという趣旨です。
日本の昔話にも大切なヒントが隠されています。「こぶとりじいさん」、「雀のお宿」、「花咲じいさん」といった昔話を思い浮かべてみれば、これらの物語において、「結果熱心」、すなわち「世の中、結果がすべてだ」と考える立場は、果たして善良なおじいさんの立場か、それとも意地悪じいさんの立場か、どちらでしょうか。善良なおじいさんは、結果的に宝物を手に入れますが、最初からその「結果」を目的として行動したのではありません。
では、意地悪じいさんにはなくて、善良なおじいさんにあったものは、何であったのでしょうか。私は、こぶとりじいさんにとって、それは踊りを愛する心であり、花咲じいさんにとって、それは飼い犬シロを愛する心であったと考えます。この「愛する心」が根っこにあればこそ、道は自ずと幸せな結末に通じていくのです。
学びの山道においても、この「愛する心」があれば、道は自ずと上方に通じています。学びを愛する心とは、学びを楽しむ心です。「楽しむ」と言うと安易に聞こえますが、事実は逆で、それはTVやゲーム等の「もてなし」による楽しみとは本質的に意味が異なります。私たちは実際に山道を歩くことで汗をかき、すがすがしい気持ちになるでしょう。じっとしているより山道を歩く方がずっと「しんどい」はずですが、なぜかこの「しんどさ」は「充足感」や「喜び」に通じています。実際、「汗をかくことを楽しい」と感じる経験が「学びを愛する」王道なのです。
人間は生涯学び続けることができる、という考えに立つとき、その「学び」の先に何があるのか、誰しも気になるところです。しかし、昔話に出てくる善良なおじいさんたちは、そのことを問いませんでした。「何の役に立つのか」という「結果熱心」の問いには、「きっと何かの役に立つ」とのみ答えておきましょう。
さて、「山の学校」ではこの秋学期も、「学ぶことを楽しむ!」をモットーに、それぞれのクラスで様々な工夫を凝らしてまいりました。山登りに喩えるなら、時にひざまずいて路傍の花に目を向け、鳥のさえずりに耳を傾けるクラスもあれば、時に、峻厳な学びの山への畏怖を覚え、「いつかあそこまで」とさらなる高みへの挑戦を誓い合うクラスもあります。その実践の具体的記録の一端を次頁からじっくりご覧頂ければ幸いです。
(2008.11)