福西です。以下は雑談です。
10年近く前から『WolframAlpha日本語版』という検索エンジンがあります。
たとえばこれに、
x^2+4x+1=0の解
と入力すると、(x^2はx2のこと)
-2-√3, √3-2
と答が返ってきます。
また、
x’+4x+1=0の解
と入力すると、(「’」は微分のこと)
x(t)=C1e-4t-1/4
と答が出ます。(C1は任意定数、eはネピア数)
まるで「OK,Google!」のようなノリです。
もしも、このような便利ツールが当たり前の世になったとすれば、四則演算を学ぶことにどれほど意義が残るのか? あるいは学んで損のない「基礎」とはどこまでを指すのか? という問いが浮かびます。
ここで、『数学入門(上)』(遠山啓、岩波新書)から少し引用します。この本が書かれたのは1959年です。今から約60年前のことです。
これまで数学などに用のあるのはよほど特別な人に限られていた.多くの人々にとって数学は試験に及第するためにだけ必要な科目で,卒業と同時にさっぱりと忘れてしまいたい無用の長物にすぎなかった.
ところが,近ごろになってすこし事情が変わってきた.数学がいろいろの場面にのさばりはじめたのである。(…中略)20世紀後半の世界ではこれまでになかったほど数学が活用されるかも知れないし,いや,もうそのような時代がすでに始まっているともいえよう.そうなるとある程度までの数学を身につけていることは,これからの世界に生きていくための不可欠の条件であるといってよい.
そうかといってむやみに程度の高い数学がだれにも必要なわけではない.20世紀後半の世界に活動する日本人に必要な数学として,私は一応「微分方程式まで」という線を引いてみた.
たしかに微分方程式までの知識が日本人の常識になったら,それはすばらしいことであろうと思う.(…以下略)
──『数学入門(上)』(遠山啓、岩波新書)はしがきより
当時の著者の願いは「微分方程式までの教養が日本人の常識となったら」というものでした。その動機付けに、著者は、他分野での数学の必要性を強調しています。
そして半世紀が経ち、今になりました。
さらに半世紀後──学校の数学の勉強はどうなっているのでしょうか。
もしも、社会の前提が「機械は多くの分野で人間を越えない」から「越える」へと変化した時、はたして数学を学ぶ必要性が、今よりもっと強まるのか、それとも弱まるのか……私には正直分かりません。
一方で私個人は、数学には、その学ぶ必要性よりも、学びたいという一面に光を見るような思いがしています。いや、そう思いたいだけかもしれませんが……。
しかしそんな私が言っても言わなくても、数学それ自体は、人類がこれまで大事にしてきた「知」の歴史です。それにアクセスすることは、人類が好奇心を持ち続ける限り、変わらぬ魅力を保ち続けることでしょう。
生涯教育はこれの機会だと思います。
私が山の学校で、算数や数学のクラスを受け持つ理由は、何だろうかと考えると、「生涯」という言葉に行き当たります。
私が数学を(おそらく「生涯」)好きになったのは、ある一冊の本を通してでした。それを読んだのは大学生になってからのことです。つまり、大学に入ってから「やっと」、数学に興味を持ち始めたのでした。自分のペースで勉強できる、一ファンとして。それまでは、数学に対してはコンプレックスが強く、受験に通用する程度に「他の科目に比べて得意」であっても「好き」ではありませんでした。
その本は大学の図書館にあった、『固有値問題30講』(志賀浩二、朝倉書店)という本でした。
それを1回生~2回生の間に読んで、一番興味を魅かれたのが、フレードホルムの理論の話でした。独学で何回読んでもきちんとは理解できませんでしたが、行列の離散な固有値から関数の連続なそれへの胎動が聞こえてくるような感動があったのを覚えています。
そして、「高校までの数学が数学のすべて」だと思っていた世界観が、きれいに崩れたような気がしました。「なんだ、こんなちっちゃな世界を『全て』だと自分は思い込んでいたのか」と。まるで地球の上(大気圏の外)に連れていかれたような思いがしました。
それから、数学に対し、ある特別な感情を抱きました。私にとっての数学は、まだ見ぬ古典だということでした。数学は、数の自然に対する発見の歴史であり、それを収めた大きな図書館の本棚のように、死ぬまで読まないものだらけ、読んでも分からないものだらけです。でも、それこそが、ワクワクできる現実味だと感じたのでした。
では、他の分野でならどうか? きっと、同じような現実味が広がっていることでしょう。つまりどの門を叩いても、深みがある。大学には、研究室からの「学風」を感じるだけでも、進む価値の半分以上があったように記憶しています。私は工学を専攻しました。「使える数学」を見つける立場で、行列を主に勉強しました。そしてこれに夢中になりました。高校の時は正直嫌いでしたが、今ではずっと、行列に愛着を覚えています。
数学は、自然科学(science)の一分野であり、昔から哲学を支える一柱でした。私にはそれがhumanityを支えるscienceとして魅力的に思えます。そして、humanitiesは人文学です。人文学は、人間が人間らしく生きるための学問です。私はそれにも興味があります。
昨年2018年の1月に、SF作家でありファンタジー作家でもあるル=グインが亡くなりました。彼女は、ある小説に登場する魔法使いに、次のように語らせています。
「川にもてあそばれ、その流れにたゆとう棒切れになりたくなかったら、人は自ら川にならねばならぬ。その源から流れ下って海に到達するまで、そのすべてを自分のものとせねばならぬ」──『ゲド戦記』(ル=グイン、清水真砂子訳、岩波書店)
役立つことのために何を学べばいいのか。そして役立つことの奴隷とならないために何を学べばいいのか。
数学のおかげで便利になった世の中でも、数学に対して「OK!」と言い続ける世でありたい。それも、自分のハートから。最初に引用した『数学入門』(遠山啓、岩波新書)の本意は、そこにあったのではないかと私は愚考します。
山下です。
山びこ通信に掲載したいエッセイをお寄せ頂き、ありがとうございました。
どんどんブログに思いの丈をお書き下さい。私も遠山先生の本は中学時代に読み(かじり)、内容はわからないなりに、何か大事なことを書いてある本という印象だけ強く心に刻まれています。
個人的には、中学で数学とくに幾何学に出会い、色々な場面で救われた経験を持つので、山の学校で「かず」の看板を掲げる意義をこうしてお書き頂くと、嬉しい気持ちになります。
山下先生、福西です。ありがとうございます。
今あらためて記憶を掘り下げてみると、過去の自分が数学へと向き合えた理由として、以下の四つの要素に思い当たります。
1)文章題を読むことが、国語のおかげで嫌いではなかった。
2)計算では、小さな法則を集めた。
(意味のある面倒くささと、意味のない面倒くささとを分けようと考えた)
3)パズルや証明問題は苦手だったが、時折時間を忘れてうんうん考えたことがずっとこやしになった。誰からも褒められなかったが、誰からも邪魔されなかった。
4)教科書以外の数学の本を読んで、視界が広がった。
1)は母親に見てもらった体験
2)は先生のまねをした体験
3)は「考えることが嫌いではない」という自信の貯金
(ただし3)の活力は、普段の遊びの体験から得ているように思います)
4)は図書館などの環境に自分からアクセスした体験
今後も、こうした個人的な思い出をふるいにかけて、その中からより普遍的と思える要素を抽出し、クラスに取り入れていこうと考えます。