山びこ通信2021年度号(2022年2月発行)より下記の記事を転載致します。
『ギリシア・ローマの歴史を読む』
担当 大野 普希
「ギリシア・ローマの歴史を読む」と題して、今春から英語でギリシア・ローマ史を勉強するクラスを開講しました。テキストとして選んだのは、西洋古代史の大家モーゼス・フィンリーの円熟期の論考を集めたThe Use and Abuse of Historyという論集です。その中から“The Ancient Greeks and Their Nation”という、15頁ほどの短い章を取り上げて読み始めたのですが、英文も内容も一筋縄ではいかない読みごたえのあるもので、春学期と秋学期を通してようやく10頁程を読み進めました。
最初は、受講生の方々にその場で担当を割り当て、口頭で訳してもらうというやり方をとっていたのですが、ありがたいことに、講師が想定していた以上に、訳語の選定や文構造の理解を巡って議論が白熱するようになりました。そうなるとやはり訳文を文書化した方が便利だということになり、秋学期からは、事前に各々の担当範囲を割り当てて訳文をつくってきてもらうようにしました。授業ではそれに基づいて各人の訳を検討しつつ、内容についても講師が適宜解説を加えています。
さて肝心の内容ですが、“The Ancient Greeks and Their Nation”の主題は、「古代ギリシア人にとってギリシア人であるとはどういうことだったのか」というものです。素朴な問いですが、それだけに答えるのがとても難しい問題です。ギリシア人とは何者であるかということをギリシア人自身が明示的に語っている、「いかにも」な史料だけを選り抜いてきて、それらを総合するという通り一遍の方法では、この問いに答えることはできないとフィンリーは言います。ではどうすればいいのか。重要なのは、ギリシア人がギリシアについて語る際のコンテクスト、さらにはギリシア人がギリシアについて語っていない場合には、その「沈黙」という現象そのものの意味を明らかにすることである、と彼は言います。
例えばヘシオドスに『仕事と日』という作品がありますが、これはフィンリーによると「沈黙」の好例です。ヘシオドスの描く世界はほとんどの場合、血縁・地縁でつながった小さな共同体の枠内で完結しています。しかし、ひとたび話がその外部に及ぶとき、有名な「五時代の説話」のように、それは一気に人類全体へと飛躍するのです。つまり、ここには身近な世界と人類全体という2つの参照点しかないのであって、その中間に位置するはずのギリシアについてヘシオドスは「沈黙」しているのです。
このように、ギリシアへの帰属意識というものを最初から特権化するのではなくて、血縁集団から都市や人類全体に至るまで、古代ギリシアの人々が帰属意識を持っていた広狭様々な集団に目を向けることで、ギリシアはそれらの中の1つに過ぎないものとして相対化されます。そうすることによって、ギリシア人にとってギリシア人であることが何を意味し、それが彼らの生活全体の中でどの程度重要であったのかを徐々に明らかにしていくことがフィンリーの狙いです。
論の展開も結論ありきのものではなく、まずは1つの視点から分析してみて、難点が見つかればまた別の視点を持ってくるという具合に進むので、著者の思考過程を追体験できる反面、読み手は時にそれに振り回されて文脈を見失いそうになります。英文を読解するだけでなくフィンリーの主張の全貌を理解しようとする受講生の方々の熱意と鋭い質問に支えられて、ここまで何とか振り落とされずにフィンリーの思索の跡を追いかけてきました。冬学期はラストスパートをかけて、その結論を見届けたいと思います。