『日本文化論を読む』(西田幾多郎)を受講して(2021年2月)
小学校から今まで京都で生活してきた私にとって、西田幾多郎はちょっとしたあこがれの存在でした。と同時に、自分には到底理解できない存在なのだろうなと思っていました。実際、大学1回生のときに西田幾多郎の思想についての一般教養の科目を履修したのですが、ちっとも理解できませんでした。自分からはとても遠い話のように感じたのです。それから2年後、キャパシティにも余裕が出てきたかつ何か刺激が足りない日々だったので、さぁリベンジと思って思想史がご専門の中島啓勝先生に西田哲学について教えていただくことにしました。
授業は西田幾多郎の論文を読んできて、わからないことは質問、気になったところは議論するというスタイルです。私のように哲学をほとんど学んだことがない者にとって、いきなり哲学者の書いた「生のもの」にふれるのは不安でしたが、非常に貴重な機会です。とはいっても、はじめに読んだ「場所」という論文には終始圧倒されました。文体が今まで読んだことがない種類のもので、「〜でなければならない」などのいわゆる「教科書」だとめったにお目にかかれない表現や、声に出して読めば酸欠状態になるほど長い文のオンパレードでした。内容に関しては、難解な議論をこねくり回した挙げ句、最後に「十分に思う所を言い表すことの出来なかったのを遺憾とする」という衝撃のあとがきが。そんなわけで、序盤の授業では「正直よくわかりません」と率直な感想をぶつけました。しかし、そんな私のような不出来な生徒にも中島先生は粘り強く、ときにはユーモアも交えつつ説明してくださったので、西田とのつき合い方も少しずつつかめてきました(とはいっても、「場所」に関しては専門家の間でも非常に難解と評判なのでその内容をここで十分に書けないのが悔しいですが)。
そんな中、次に読んだ論文「私と汝」では次のような内容に救いを受けました。私が汝と出会うということは私自身を絶対的に否定するものに突き当たることであり、それによって私は生まれる。難しい西田の文章と出会って悪戦苦闘し、中島先生と話すことによって、今の私になりえたのです(そして、何者にもなりえるのです)。そして、今読んでいる「論理と生命」では冒頭に出てくるピュシス(人間が理解できない真の存在がある立場)とロゴス(人間はすべてが理解し尽くせるという立場)の議論も非常にためになりました。私が専門として学んでいる経済学も、社会の動きや人間の活動を対象的にとらえて、それを(一応は相対的な)モデルに落とし込むことで、分析可能なものとしているロゴス的な学問ということに気づかされました。私は経済学というこのロゴス的な手法をまずは身につけようと考えていますが、一方でいきいきとしたものをつかもうとする感性は忘れないでいたいです。まだまだ道半ばですが、素晴らしい体験をさせていただいていることに感謝いたします。(浅野 望)