『山びこ通信』2015年度冬学期号より、巻頭文をご紹介致します。
素読と子どもたち
山の学校代表 山下太郎
私は山の学校で「論語」の素読を担当しています(月に一回、小学生対象)。やり方は幼稚園で行なっている俳句と同じです(週に二回、年長児対象)。どちらも正座をして挨拶し、黙想するところから始まります。俳句は五、七、五の切れ目まで、一方、「論語」は切りのよいところまで私が先に言葉を発し、子どもたちがそれを復唱します。
「論語」の素読は今も草の根レベルで行われていると思われますが、幼児を対象とした俳句の素読はおそらく全国的にもまれだと思います。これは幼稚園の創設当初に祖父の発案で始まったものです。「幼児と俳句」と題したエッセイ(『この道50年』所収)の中で、父が祖父の心中を次のように伝えています。
「俳句なら短かくて覚えやすいし、文学的なリズム感もある。就学前の準備教育とは違い、早くから知っていたからといって入学後の学習の妨げにもなるまい。幼児期にこそ、日本古来の最短詩である俳句を通して、知育よりもむしろ詩ごころの根っこを育ててやりたい」。
昔と今と、子どもたちを取り巻く環境は大きく変化しましたが、今の子どもたちが、俳句や「論語」といった伝統に根ざした「大人の言葉」、「本物の言葉」を渇望していることは実践して初めてわかります。素読とまでいかなくても、家族で百人一首をすれば、読み手となる大人は誰もがこのことを実感するのではないでしょうか。
さて、山の学校の「論語」では、私は本来の素読を離れ、子どもたちにいろいろな問いを出すようにしています。例えば、「徳孤ならず。必ず隣あり」を紹介した後、「この『とく』とはどんな漢字かな?」といった具合に。下の学年から尋ねていくと、ある生徒は「得」、別の生徒は「特」と答え、最後に上級生が「道徳の徳」と答えてくれます。
知識の確認をするためというよりも、こうしたやりとりそのものを大事にしたいと思い、私はできるだけ子どもたちにとって身近な話題を取り上げ、対話(問いと答え)の時間をもつようにしています。「論語」にかぎらず中国古典の魅力は、一字一句、一文一文が多様な解釈を許容する点にあります。すでに知っていると思っている言葉も、観点を変えて問い直すと面白い発見があります。
子どもたちの反応を見ていると、ある程度わかりやすい言葉とそうでない言葉があります。「利によりて行えば怨(うら)み多し」や「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」などは、内容を説明すると低学年の子どもたちも「なるほど」という顔をします。逆に「君子は器(き)ならず」は、「器」でいけない理由を子どもに伝えるのは難しく、また、「巧言令色すくなし仁」も、説明に手こずる言葉です。もちろん、素読ということでいえば、言葉を尽くして理解してもらうことが目的ではありません。
昨年の某日。この日は許可を得て幼稚園の年長児が参加していたこともあり、基本に戻って冒頭の言葉のみを扱うことにしました。
子曰く(しのたまわく)、学びてしこうして時に之(これ)を習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも) 遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
慣れ親しんだこの言葉を全員で朗誦した後、私は子どもたちに次のような話をしました。
「復習することは楽しいですか。家に帰って学校で学んだ事を復習するのは大事です。コツをいいます。六年生は五年生、五年生は四年生の勉強に必ずうっかりしていること、積み残しがあります。二年生は一年生で習ったことをやり直すと『なるほど、そういうことだったのか』とわかることがあるはずです。その発見は『よろこばしからずや』です。では尋ねます。一年生は何を復習すればいいのでしょうか」。
こう聞くと、みな困った顔をしました。一人の小学一年生が答えました。「幼稚園には教科書はない」と。お見事。その通りです。次に、二年生が答えました。「一年生でもすでに習ったものがある。それをやり直せばいい」。これもその通りです。私は次のように話を続けました。
「今日集まったみなさんは幼稚園時代に何を学びましたか。俳句の時間に園長先生が言ったことを思い出して下さい。『姿勢が大切。小学校に行ってもよい姿勢で学んで下さい』と繰り返し言いましたね。そのことはどうしても忘れがちです。ほかにもたくさんのことを幼稚園時代には学びました。今できていることもあれば、できていないことや忘れてしまったことがあるかもしれません。そのようなことをもう一度思い出してみて下さい。そして『なるほど、そういうことか』と納得できるなら、それもまた『よろこばしからずや』です。
孔子は学校の勉強を学ぶことだけを『学ぶ』と言ったのではありません。むしろ、幼稚園時代にみなが大切にした優しさや思いやりや勇気の一つ一つを大人にもわかるように説明していると先生は思います。たとえば、みなさんは、手をつないで幼稚園に通いました。年少児が泣いたとき、『だいじょうぶ?』とやさしくしてくれました。そんなみなさんを孔子は『君子なるかな』と言うでしょう。君子とは立派な人という意味です。大人だけが立派だという意味ではありません。今いるみなさんも、良い姿勢で学び、家族や友達を大切にして毎日を過ごせば、君子と呼ばれるのです。この『論語』という本にはそういう生きる上で大切なことを『思い出す』ヒントがいっぱい書かれています。そしてその大切なことは、幼稚園ですべてみなさんは学んだのです。これからも、がんばって声に出していきましょう」。
冒頭の言葉はこれまで何度説明したか、何度声に出したかわかりません。子どもたちの真剣な姿勢と表情が、この日は上のような話を導いたと感じています。私にとっても、素読の時間は新鮮な言葉との出会いの場になっています。 (山下太郎)