『勉強?研究?…「学ぶこと」によせて』

前川 裕

「勉強、好きなんだねえ」──誰かにこう言われた時、どう思うでしょうか。私は「変な奴だなあ」という言外の圧力を感じます。つまり、「勉強」とは学校で強制されるもの、分からなくて嫌なもの、時間がかかって苦しいものであり、そんなものが好きなんて変わった奴だなあ、…という憐れみのような感触です。

そんなとき、「ボクは『研究』が好きなんだよ」と返します。「研究」という言葉には、「強制」という響きがありません。時間がかかっていても、苦しいものではありません。むしろ、喜びに溢れたひとときです。「研究」という言葉を使うと大仰な感じですが、自分から好んで学ぶものはみな「研究」である、といってもよいでしょう。

しかし、小学校から大学に至るまで、基本はやはり「勉強=教えられること」だと思います。それは、その時は当人に価値が分からないものであっても、将来に開花するための貴重な布石だからです。好きな物ばかり食べていたら栄養が偏るように、好きなことのみを学んでいてもやはり知識のバランスが偏ります。

身体が様々な栄養素によってバランスを保つように、知識もまたさまざまな要素によって組み合わさっているからです。A という事象は、通常a が原因と考えられるが、実はb によっても、またc によっても説明できるのだ──そのような多様性に気づくことは、人間としての「生きる力」を付けるために不可欠ではないでしょうか。

私は「学ぶこと」が大好きです。いろんなことに手を出してきましたし、今でも手を出し続けています。そんな私には大書店や図書館は宝の山です。自分の専門分野の棚はもちろんですが、全然違う分野の本棚を眺めて歩き、時に目についたものを手に取ってみる。もちろん、分からないところだらけです。でも「何か新しいことに触れた」という喜びの記憶は、いつまでも残ります。それは決して無駄なことをしている時間ではありません。むしろ、それこそが「学び」の本質なのだと思います。

「山の学校」も、そのような「学ぶこと」の喜びを分かち合う場として成長していきます。ここから大樹のように「学び」が広がっていくことを願って。
(2005.7)