山びこ通信2018年度号(2019年2月発行)より、巻頭文をご紹介致します。
AI時代と子どもたち
山の学校代表 山下 太郎
技術の進歩に伴い、「AI時代」や「人生百年時代」といった言葉が耳目を集めるようになった。子どもたちは何か新しいことに挑戦し、新時代の競争に勝てるよう今から準備を開始すべきだろうか。様々な立場から様々に答えることが可能であろう。私は幼児教育に軸足を置く者として、今の問いには「否」と答えたい。むしろ、今までなおざりにされがちであった教育の王道――「三つ子の魂」を百まで守る道――にあらためて注目する必要が出てきたのだと思う。
従来の競争に根ざした教育に身を置く限り、子どもたちの「三つ子の魂」は十代のうちに輝きを失う恐れがある。中高生は試験のために勉強するが、勉強そのものを楽しいとは感じない。大学生は授業に出席するが関連する図書は読まず、積極的に質問をしない。彼らの学びは受験勉強や就職活動とともに終わるだろう。これに対して、勉強そのものを楽しむことのできる少数の者たちは、他者との競争に「勝つ」という動機づけがなくても、自らの興味の赴くままに知の領域を広げ、かつ、深め、生涯にわたり学びの魂を輝かせ続けるだろう。
両者の違いは大きい。昨今言われるように、AI時代においては、前者の人材が職を失い、後者の人材に光が当たることは間違いない。OECD諸国はその見通しのもと、また、様々な教育研究の成果のもと、教育の主軸を「非認知能力」の育成にシフトし、その上で幼児教育に対する国家的支援を積極的に行っている。
一方、わが国の場合、国民の関心は入試の動向に一喜一憂し、幼児教育の中身については何も知らないに等しい。たとえば、「遊び」を通して子どもたちが何をどう学ぶのか、具体的に語れる人は少ない。「子どもを真ん中」に据えた家庭教育と集団教育のほどよいバランスとは何か、考える人はほとんどいない。日本の場合、就学前の教育の議論の多くは、子どもに寄り添った目線でなく、大人の都合で語られるのが常である。一方、幼児教育の重要性についての私の考えは、昨年上梓した拙著『お山の幼稚園で育つ』(世界思想社)の中で書き綴ったので、これを機にぜひご一読いただきたい。
さて、ここでは、以上のような背景の上で、AI時代に求められる子どもたちの学びについて「幼児教育的視点」から具体的な意見を述べてみたい。先にふれた「積極的な学び」と「消極的な学び」の違いは何に起因するのだろうか。その軌道修正はよほどなことがない限り、高校や大学では手遅れである。まさしく「三つ子の魂百まで」の言葉通り、この対比のルーツこそ、幼児期の育ちに関係するのである。
私は幼稚園の年長クラスで俳句を教えている。芭蕉や蕪村、一茶の俳句を季節に応じて紹介し、学年全員で声に出して唱える。いわゆる素読スタイルである。俳句の「五・七・五」のリズムに慣れてくると、子どもたちは易々と名句を暗誦し、やがて自分で俳句を作るようになる。私は「全員に俳句を暗記させよう、俳句を作らせよう」などという目標を掲げてやっているのではない。ただひたすら古典の名句を繰り返し朗唱する。それが基本で、その結果はおまけである。 子どもたちも「遊び」の感覚で俳句を作ってくる。古典の言葉に親しむことが狙いなので、作ってよし、作らなくてもよしである。成績評価を行うと、こうはいかない。「ここまで出来たらこの評価」という基準を設けないといけない。だが、俳句を作った子の評価は高くなり、作らない子の評価は低いとなれば、俳句作りが「遊び」でなく「義務」になる。「遊び」だから自主性、創造性、感性が育つとも言える。
これはほんの一例である。幼稚園では、日常生活のすべての場面が遊びであり学びの機会である。先生たちは、子どもたちの様々な発言はもちろんのこと、声にならない心の声も含め、一つ一つを丁寧に拾い上げ、個人の学び、全体の学びにつながるよう日々心を砕いている。先生にはなんでも話ができる、先生にはなんでも話を聞いてもらえる、という安心感がすべての前提であり、これがうまくいかないと、子どもたちは心を閉ざし、心の声を自由に発することを控えるだろう。
従来の小学校以上の学校教育においては、生徒たちをバスのダイヤのように決まった時間に決まった場所に運搬する必要があるため、子どもたちの自由闊達な声を拾い上げる時間的余裕は少なかったように思う(今後学習指導要領の改訂で変わる可能性はある)。作家の司馬遼太郎は中学の英語の時間に「ニュー・ヨークという地名にどんな意味がありますか」と質問し、先生に「地名に意味があるか!」と叱られた。「幼稚園的視点」に立てば、先生自身が「面白いことを聞くね」と目を輝かせ、「ヨーク」に「ニュー」がついた歴史的背景を喜々として説明したに違いない。
司馬氏はその後、英語の授業をボイコットし(試験はわざと白紙提出)、図書館にこもって独学する。図書館中の本を読みあさり、英語の力も独力で身につけた。その独学力を支えたのは司馬氏の旺盛な好奇心と読書力であったことは間違いない。逆に言えば、司馬氏は中学生にして圧倒的な読書力を誇っていたからこそ独学の見通しを立てることができたのだと言える。私が今好奇心と感性豊かな中学生の親なら、本を読む力をどこまでも高めてほしいと願うだろう。日本の学校教育は信頼に値するものであるが、万一子どもにとってボイコットしたい事態が起きても、好奇心と読書力さえあれば、自分で学びの道を切り開くことが期待できるからである。
一方、競争としての学びの蔓延は、中高生の「本離れ」や「読書力の低下」を促して久しい。競争をあおるほど、教科書さえ正確に読めない生徒が量産されるようである。じっさい入試で正解をすばやく導くには「こうすればよい」、「ああすればよい」といったノウハウが一人歩きし、いわばパン食い競争のような態度で日本文を「噛まずに飲み込む」生徒たちが後を絶たない。腹を壊し、熟読・反復読みによって得られる読書の味わいを知らぬまま、大学に入るころには専門書を精読・多読する気力も失っている。では、日本語の読解力を確かなものにするにはどこから手をつければよいのか。
私が重視したいのが、音読の習慣である。どの科目の教科書でもよい。教科書を開き、そこに記された文章がスラスラ読めるかどうか、読解力に不安を抱える中・高生は一度試してほしい。読めない漢字があれば調べた上でもう一度最初から読み直す。読んでつまづくなら、スピードを落として再度読み直せばよい。うまくいかなければ、できるまで繰り返す。それでもだめなら、一つ下の学年の教科書で試してみる。一番駄目なのは、「できるふり、わかったふり」をすることである(英語に関して付言すると、平均的高校生は高校入試レベルの英文をスラスラ音読できない)。
そもそも、中学生になる段階で読解力の差がつく要因は何か、どうすれば小学校時代に読む力を高めることができるのか。技術的には今ふれた音読が重要である。とりわけ低学年の段階でこの習慣を身につけてもらいたい。大人は子どもが「本好き」だと思って油断してはいけない。我流の「飛ばし読み」や「斜め読み」に長けているだけかもしれない。音読の場合、そのような誤魔化しはきかない。親は、漢字の書き取りや計算ドリルと並んで子どもの音読を丁寧に見守ってほしい。一字一句を声に出して読む経験が精読の基礎になる。
音読が習慣になれば、子どもは自ずと教科書の内容を暗唱するだろう。だが、親はこれを目標にせず結果として受け止めるべきである。大事なことは、「継続は力なり」と信じて子どもの地道な学びの一歩一歩につきあうことである。
このような親子のつきあいは、相互の信頼がなければ成り立たない。その信頼関係をじっくりゆっくり育てる上で、私は幼児期の絵本の読み聞かせの習慣がきわめて重要な意味を持つと考える(この意味で学力の基礎は幼児期の習慣にあると言える)。親は心を込めて丁寧に言葉を発する必要がある。その言葉が子どもの音読の手本になる。また、親自身が子どもと一緒に絵本の楽しさ、素晴らしさを味わっていただきたい。その気持ちは本を読む声の響きに表れる。楽しい場面、悲しい場面、それぞれの場面ごとに使い分けられる親の声色によって、子どもは文章を深く理解し、イメージを豊かに形成する。
このようなシナリオは「言うは易く行うは難し」かもしれない。現代は多忙であり、親の「読み聞かせ」の代わりにスマホが動画を見せてくれる。子どももそれを喜んで見るかに見える。だが、子どもにとって一番うれしく、ありがたいのは親の肉声による絵本の読み聞かせであり、不特定多数に発せられた情報に深い愛着を感じることはないのである。
読解力を育む観点から見ても、絵本は動画に勝るだろう。絵本の読み聞かせの場合、子どもは、耳に入る言葉を絵本の挿絵と付き合わせ、内容を理解する時間を十分に取れるのに対し、動画の場合、目で見て処理する静止画像が多過ぎて理解が追いつかない。食事で喩えれば、じっくり咀嚼するのが読み聞かせで、噛まずに呑み込むのが動画である。幼児にとってどちらが望ましいかは明らかである。
絵本の読み聞かせと音読の確認は、子どもの読解力――ひいては独学力――を育てる上で不可欠であるが、いずれも子ども任せ、他人任せで実現できるものではない。一日わずかの時間でよい。その時間を喜びの時間として子どもと共有できるかどうかが鍵となる。他方、親が忙しく、子どもの学びを塾にアウトソースし、競争に基づく学びを子どもに強いるだけでは、子どもの読む力は豊かに育つどころか、おおいに損なわれることが必至である。その結果として、また、競争にあおられた学びの結果として、昨今の中高生の深刻な活字離れ、読書力低下の問題があると私は見ている。
最後に、子どもたち(中高生)は何を読むべきかの問題にもふれておきたい。文章の精読ができる生徒にとって、古典を読む経験はなにものにも代えがたい。ただし、確かな読解力を備えた生徒には、ぜひ一歩進んで「西洋の古典」を読むようアドバイスしたい(もちろん翻訳でよい)。理系文系を問わず、真理の探究を後押しする言葉が満天の星々のごとく輝いて見えるだろう。
学校教育において、なぜこの分野だけぽっかり穴が空いているのか、私は疑問に思う。明治開国当初のスローガン(「和魂洋才」)の影響によるのだろうか。だが、グローバル時代と呼ばれて久しく、また、まさにAI時代が幕を開けようとする今、和魂か洋魂かといった区別を超越し、「人間とは何か」を掘り下げて問う視点が益々大切になってくる。例えば、人が人として自ら問いを立て、考える力をどう守り、育てればよいか。ヒントは西洋古典に横溢している。
議論を行うさいには、権威よりも理論の説得力こそ求められるべきである。じじつ、我こそは教える資格ありと公言する者の権威などは、何かを学ぼうとする人間にとってしばしば害をなす。なぜなら、学ぼうとする者は、やがてみずから判断することをやめ、自分が正しいと是認した人間の判断をすべて鵜呑みにするようになるからである。(キケロー『神々の本性について』1.5、山下太郎訳、岩波書店)
授業中に「ニュー・ヨークはどういう意味か」と問われて叱った先生は、生徒の質問が自分の権威に楯突く行為に見えたのだろう。他方、勉強を競争の手段とみなす偏差値教育は、子どもたちが納得ゆくまで問い続け、考え続ける習慣を「無駄な努力」として放棄させてきた。だが、教育者が権威をかざして「正解」を伝授し、知識の多寡を競わせる時代はいよいよ過去のものとなる(ならねばAI時代に逆行する)。「西洋古典的視点」に立てば、真理探究の「情熱」(スタディー)こそが高等教育を受ける条件であるべきで、その情熱を欠いた者はいくら偏差値が高くてもステューデント(真理探究の情熱を燃やす者)とは呼ばれない。ところで、この情熱とは「三つ子の魂」の別名であり、幼児教育が何より大切に見守る「学びの魂」に他ならない。今後、小学校以上の教育改革によって子どもたちの「学びの情熱」が赤々と燃え続けることを祈るが、万一うまくいかなくても、良質な幼児教育と豊かな読書体験がそれを守ることだろう。
私が今心に抱いている新時代の教育観は以上の通りであり、今までと何も変わるところはない。幼稚園ならびに山の学校で日々接する子どもたちには、彼らが今後末広がりに活躍できるよう、これまでどおりの姿勢で応援していきたい。(山下 太郎)