山の学校古典語講師 山下大吾
以下の文章は、私が先の『ラテン語の夕べ』で行った講演、「ケーベル先生と古典―”You must read Latin at least.”の意味」の最終部を基にして作成したものです。上記アドレスに当日の模様と配布した資料のリンクがありますので、併せてご覧頂ければ幸いです。
ギリシア語やラテン語、また両言語で書かれた西洋古典の作品が、様々なヨーロッパ的現象の基礎を担うものであることはこれまでに幾度となく指摘されており、もはや常識と言ってよいものでしょう。私はそれに加えて、特にラテン語ラテン文学の持つ価値を、すなわちヨーロッパのみならず、我々日本人を含めたあらゆる人間に等しく響きあうものを、物事を真摯に学ぼうとするものであれば誰にでも当てはまる、今一つの普遍的な価値をこの箇所でとりあげました。
原稿作成に際し、山の学校の同僚である福西亮馬先生のブログ「Hinemos amo!」に掲載された文章を参考にいたしました。記して感謝申し上げます。先生のブログも是非ご覧ください。
最後に、この我々が、ギリシアやラテンの古典を読む意義、分けてもラテン語を学ぶ意義について、ケーベル先生が一番好きなラテン詩人であったホラーティウスの言葉を基に考えてみたいと思います。
世に、傑作と言われる作品は数多く存在します。ケーベル先生も、その著作の中で数多く名前を挙げておりますが、それでなくてどうして、ゲーテやシラー、バイロンやシェークスピア、モリエールやダンテ、そしてプーシキンやチェーホフといった各国文学の傑作が存在し、またそれらに我々が触れて、それらを読んで、感銘を受け、感動しないといったようなことがどうして、ありうるでしょうか。
しかしながら、それら作品がひとたび「古典」と言われる所以は、それら作品の持つ内容、価値、質というようなものが、西洋古典の持つ価値なりと匹敵し、あるいは凌駕するものであると、もしくは、西洋古典の作品がヨーロッパの土壌で果たした役割を、その各国文学の土壌で果たした、あるいは広く世界的な規模で果たしたと認められた時にはじめて、古典、opera classica と呼ばれているのです。「第一級の作品」ということになります。
ということは、意識的にしろ、無意識的にしろ、また規模の差はあれ、それら各国文学の作品というものは、西洋古典の作品に「並び追いつこう」と、「挑もう」と、そういう動きの結果、先程申し上げたような作家の諸作品が生まれていると言ってもいいかもしれません。
世界文学全集という名の出版物が数多く存在します。みなさまのご家庭にも一セットあるのではないでしょうか。それらの背文字から訴えかけてくる作品名は、それらの苦闘の歴史、そのドラマの歴史であると言ってもいいかもしれません。ただしその世界文学全集の中で、肝心の西洋古典の作品が占める割合が少ないというのは、やはり欠点と言えるかもしれません。しかしその欠点もいずれ是正されていくことでしょう。
さてここで、今一度我々は古典の世界を振り返ってみることにいたしましょう。すると、そこには今申し上げたような動きを自ら体現しているような言葉、そして文学があることに気付かされるはずです。そうです、それが、ラテン語です。
紀元前146年、北アフリカの都市カルターゴーを徹底的に破壊し尽くした後、ローマ軍はその同じ年ですが、ギリシアで最後の抵抗を行っていたコリントスの町を、これまた徹底的に破壊し尽くして、ギリシアを制圧いたしました。と同時にカルターゴーも制圧しておりますので、中部地中海の覇権を握り、後のローマ帝国につながる世界帝国の建国へと突き進んでいくことになります。
ところが、そのローマ人たちは、一方の町カルターゴーではついぞ経験しなかったような体験を、ギリシアで体験することになります。すなわち、彼らは征服したはずのギリシアに、心を、魂を囚われてしまったのです。
ホラーティウスは、その様をこのように述べております。
Graecia capta ferum victorem cepit et artes
intulit agresti Latio
ホラーティウス『書簡詩集』2.1.156-157.
捕われたギリシアは荒々しい勝者を捕らえた、さらに諸々の術を田野たるラティウムにもたらしたのだ。とあります。ferus、「荒々しい」と訳しましたが、「野蛮な」とか「無骨な」というような非常に悪い意味であります。さらにその故地である、故郷であるラティウムに対して agrestis、「田野」「畑」──agriculture の前の agri- と語源的に繋がるものです──「田野の」という形容詞を使っております。
すなわちホラーティウスは、自分たちが昔田舎者だった、何もなかったのだ、ただ力だけが強い荒くれ者だったということを認めているわけです。
実際彼らローマ人の前には、ギリシアの数多くの天才たちが群居していました。ことを文学の分野だけに限ってみましょう。その奔放と言ってもいい詩的想像力で、またその緻密な構成、と同時に大洋のような規模において、我々を魅了してやまない、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイアー』という両叙事詩。
これでもか、これでもかというような議論の積み重ね、ディアレクティケーで、我々をあくなきイデアへの探求へと誘う、プラトーンの『哲学』。
人間の運命のはかなさ、過酷さ、それと同時に、その運命にあえて挑もうとする人間の力強さを、この上ない最高の形で我々に示してくれる、アイスキュロス、ソポクレース、エウリーピデースの『悲劇』。
そのほか、ヘーロドトス、トゥーキューディデースの『歴史』、アリストパネース、メナンドロスの『喜劇』、デーモステネース、イソクラテースの『弁論』など、あらゆる分野の、あらゆる天才たちが、ギリシアには群れを成していたのです。月並な比喩になりますが、まさしく雷に打たれたような衝撃だったのではないかと思います。
さて、それを前にして、彼らローマ人たちはどのような行動に出たのでしょうか。「おれたちは勝者だ、荒くれ者でいいじゃないか」「実力で、もう世界帝国の建国に邁進して行けばいいのだ」──実際そのようになるのですが、それももちろん真実ですけれども──これはとても企て及ばぬと、尻をはしょって逃げたか…? そうではありませんでした。彼らはあえて、ギリシアの天才たちに、追いつき、追い越そう、「張り合う」という行動に打って出たのです。
本稿の表題に掲げたアエムラーティオー(aemulatio)という行動になります。
日本における西洋古典学の碩学の一人、岡道男先生はこれに「創造的模倣」という訳語を当てております。ちなみに -io で終わるラテン語の動詞由来の名詞には、ある本によると、その行為の結果というよりは、その行為そのものの過程を意味する場合が多い、という指摘があります。すなわちその行為を「絶えず行う」という意味が込められています。この「張り合う」という行為を、ローマ人たちは始めたわけです。
その過程に対しての励ましの言葉、激励の言葉として、同じホラーティウスは次のように語りかけます。
vos exemplaria Graeca
nocturna versate manu, versate diurna.
ホラーティウス『詩論』 268-269.
あなたがたは、夜であれ昼であれギリシアの手本を手にとって学ぶように。
(岩波文庫岡訳)とにかくギリシアの手本をもってあなた方は学びなさい、と言っております。彼自身学んだ成果として、2行目をキアスムス(chiasmus)の美で表現しています。1世紀から2世紀にかけて活躍した文人、小プリニウスがものした『書簡』にも、以下のような類似した言葉が見出されます。
imitatione optimorum similia inveniendi facultas paratur. 小プリニウス『書簡集』7.9.2.
最高の作家の模倣によって類似の文章を創作する能力が養われます。(講談社学術文庫国原訳)と、はっきり述べております。「最高の作家」にギリシアの先達が含まれることは言を俟ちません。このような努力を彼らは営々として積み重ねていったわけです。
すると同じホラーティスは、次のように歌いました。
Exegi monumentum aere perennius
regalique situ pyramidum altius.
ホラーティウス『詩集』3.30.1-2.
私は打ち建てた、青銅より永く耐える記念碑を、王の朽ちゆくピラミッドより高きものを。と歌いました。高らかに宣言しております。続けますが、
dicar, qua violens obstrepit Aufidus
et qua pauper aquae Daunus agrestium
regnavit populorum, ex humili potens
princeps Aeolium carmen ad Italos
deduxisse modos.
ホラーティウス『詩集』3.30.10-14.
私は言われるであろう、アウフィドゥスの流れが激しく音を
立てるところ、また水に乏しいダウヌスが田野の民を治めた
ところで、貧しき身より、力強くも、初めてアイオリスの詩
歌をイータリアの調べに移し終えた者と。アイオリスの詩歌というのはギリシアの詩歌のことを指します。
このcarmina、『詩集』の3巻の最後に当たる歌になりますが、彼はここで、carmina の中において、「ギリシアの韻律を完全に移し終えた」「ギリシアにとうとう並んだのだ」という意識のもとに、このような宣言を高らかに歌い上げたわけです。
さらに彼は解放奴隷の子でした。その意も込めてでしょうか、下から3行目に、ex humili とあります。「貧しき身より」というような言葉も見出せます。さらに注目すべきは、その上の行で、自分の故地のことについて、先ほど『書簡詩集』で出てきた、ラティウムに冠していた同じ形容詞、agrestis という形容詞を、自分の故地の人々について、また使っております。
すなわち「自分は何もなかったのだ」「田舎者がとうとうここまでやり終えたのだ」「ギリシアに並んだのだ」という意識のもとに、ホラーティウスはこの詩を記したのです。
さて、それから1800余年の後、ある北国の詩人が、その悲劇的な決闘に倒れる前年、自身の文学活動を顧みて、このホラーティウスの詩集の冒頭 Exegi monumentum を題辞に掲げて、彼の遺言と言ってもいい詩をしたため、この世を去りました。それがロシアの詩人プーシキンです。
Я памятник себе воздвиг нерукотворный
という句で始まる詩です。「私は自らに人技ならぬ記念碑を打ち建てた」という言葉になります。
彼もまた、自らの詩業を顧みて、「私はホラーティウスの歌う、青銅より永く耐えるものに、朽ちゆくピラミッドより高きものに匹敵する詩業を成し遂げたのだ」という意識のもとに、一人祝福して、高らかに歌い上げたわけです。
同時代──1837年に彼は亡くなりましたが──の人々は恐らく鼻白んだかもしれません。しかし今度は、そのプーシキンをエクセンプルム(exemplum)として、模範として、「aemulatioの模範」として、レールモントフ、ゴーゴリ、トゥルゲーネフ、ドストエフスキイ、トルストイ、チェーホフというおなじみの文豪が堰を切ったように現れることになります。そして彼らの作品は、本国のロシアのみならず、世界中で、日本を含めた世界中で愛され、読まれ、研究され続けているのです。
話題をロシア一国に限って申し上げましたが、ヨーロッパすべての国において同じような動きが、ドラマが、繰り広げられていることは言を俟ちません。むしろロシアはそれが一番少ない地域と言っていいでしょう。
さてここで、我々は一番最初に戻ってみることにいたしましょう。その「創造的模倣」の「模範」たるものは、本来どういうものであったか。それは、ferus であり、agrestis であった。荒くれ者であり田舎者だった。何もなかったものが、ギリシアに並び、さらには後世に影響を与えうるものになった、というドラマが見られるわけです。
すなわち、これは「何かを真剣に学ぼうとする者」にとって──最初に何かを学ぶ際は何もその知識がないわけですから、そこから我々はスタートするわけです──ラテン語はその範とすべき姿勢を、身をもって示しているのではないでしょうか。何かを学ぶ際にラテン語は模範となり、そして好伴侶たりうると言えると思います。
さらにこれは、極言になるかもしれませんが、世界中のあらゆる言葉が「ラテン語になれる」ということを、他ならぬラテン語自身が、その身を通して我々に示してくれている、と言うことができるのではないでしょうか。
“You must read Latin at least.”
この言葉をケーベル先生が西田幾多郎に対してものした時、このような意味を込めて言ったかどうか定かではありません。しかし今日我々の目で、このような巨視的な意味で、観点で捉え直していいのではないかと考えています。
“You must read Latin at least.”
「ラテン語を学べば、必ず、得るところがある」と。
(山下大吾)
(この原稿は、「山びこ通信」2011/6月号に寄稿されたエッセイから転載したものです)