西洋古典を読む(2021/5/19)(その2)

福西です。

(その1)の続きです。

受講生のA君が「英雄(アエネーアスの子孫)のカタログ」に対して、次のような意見を述べました。

子孫に対する関心が、ローマ人にとって高いことに興味を持ちました。『イーリアス』や『オデュッセイア』の英雄を見ると、ギリシャ人は子孫よりも自身や現在に対する関心が高いように思います。一方、『アエネーイス』の英雄を見ると、ローマ人は自身よりも子孫や未来を重視しているようです。

個人プレーよりも組織プレーを重んじるローマ人。それに関して、岡道男先生が「ウェルギリウスの英雄像──『アエネーイス』のトゥルヌスの死──」という論文で、「ホメーロス的な英雄からローマ的な英雄へ」ということを書かれていたと記憶します。また紹介したいと思います。

歴史の好きなA君は、さらに、

ギリシャ人とローマ人の価値観の違いは、名前に対する「記憶の質」かもしれないと私は考えます。自分が死んだ後も人々の記憶に残ることを名誉とすることは、ギリシャ人もローマ人も同じですが、ローマ人の場合は「書かれて残ること」を想定します。(反対にそれから抹消されることを不名誉とします)。そこで、「人々の記憶に残ってほしい」と思う願いの範囲がギリシャ人よりも長い。だから、子孫の記憶や、家系に期待するのかもしれません。

と。なるほどと思いました。

最後に、未来形の動詞に注目しました。

原文で見ると、以下の通りです。

tua fata docebo. 6.759

(アンキーセスがアエネーアスに)「おまえが背負う運命を教えよう

これと似た箇所に、

fatorum arcana movebo 1.262

(ユピテルがウェヌスに)「運命を隠す巻物を延べ広げよう

があります。

あたかもアンキーセスがユピテルの代わりをしているかのようです。

叙事詩という「過去の物語」に、「どうして未来形の動詞が(ウェルギリウスの場合ちょくちょく)出てくるのか?」──気になります。

(その3、脱線話)に続きます。