本日8月21日は前園長山下一郎先生の命日にあたります(平成17年没)。一郎先生が30歳の時に書かれた『保父』は残部僅少です(この本は二重橋を渡りました)。今新たに出版できるよう準備しているところです。
書かれたものすべてではありませんが、その多くはHPでご紹介しています。お時間の許す範囲でご一読いただけたら幸いです。>>「山下一郎著作」
4年前に書いた「訃報のお知らせ」を今読み返すと、そこに書きましたとおり、父の言葉は生前と変わらず、いつも自分の中で聞こえることに気づきます。合掌。
本日8月21日は前園長山下一郎先生の命日にあたります(平成17年没)。一郎先生が30歳の時に書かれた『保父』は残部僅少です(この本は二重橋を渡りました)。今新たに出版できるよう準備しているところです。
書かれたものすべてではありませんが、その多くはHPでご紹介しています。お時間の許す範囲でご一読いただけたら幸いです。>>「山下一郎著作」
4年前に書いた「訃報のお知らせ」を今読み返すと、そこに書きましたとおり、父の言葉は生前と変わらず、いつも自分の中で聞こえることに気づきます。合掌。
『保父』は、以前に拝読させて頂きましたが、まさか
二重橋を渡ったとは、当然ですが、知りませんでした。
お隠れになられたあの御方も目を通していたのでしょう。
ただ、二重橋を渡ったのは『保父』だけではないと思い
ますが、何故その本が選ばれたのでしょう。
ここからは私自身の勝手な私見ですので、御異論も多分に
あるかとは思いますが、御容赦下さい。
幼児教育について、昨今色々な報道がなされています。
横峰式、モンテッソーリなど、様々な言葉が聞かれます。
それぞれ特徴があり、またそれぞれにメリットが言われ、
選択肢が増えたという事に関しては、良い事と思います。
しかしながら、おそらくそれらの書かれた本は、おそらく
二重橋は渡っていないと思います。
とある幼児教育を書いた本を本屋で立ち読みしたとき、
「父親は育児に参加してはいけない(?)」と書かれて
いた気がします。
詳細は割愛しますが、確かにその理由を見ていると、まあ
そうかもしれん、という部分もありました。
しかし、根本的に受け入れがたくも感じました。
今世間で言われている幼児教育は、何を目指しているのでしょうか、と聞かれれば、おそらく将来の学歴を少しでも
あげるため、というような気がしてなりません。
たしかに、就職するにしても何をするにしても、学歴は
必ず問われますし、そのためには試験という限られた条件
のなかにおいて結果を出さないといけません。
それは、当然の事と思います。
ただし、限られた条件の中、それだけなのです。
例えば、算数や数学において、1+1は2です。
しかし、実際は違う場合が多いのではないでしょうか。
雲は1つと1つが合わされば、これまた1つになりますし、
1人1人が協力すれば、2人以上の力を発揮したり、逆に
発揮できなくなったりします。
ただ、それでは数学の試験には合格しません。
でも、1+1≠2、これもまた事実なのです。
様々な教育論が出てますが、教育する上で最も大切な事は
「正しい智恵を身に付けさせる事」と思っております。
どれもそのために考え出されたものと思います。
しかしながら、これは茶道と同じと思います。
一見無駄な動作が多いと思われ、その実、余分な動作を
極限まで省いた所作、それが今の茶道と聞きます。
その域に達するにはかなりの年月がかかります。
今々の幼児教育も、ずーっと先にはその域に達している
のかもわかりません。
ただ、『保父』などで頻繁に書かれている「遊び」はこの
域に達しているのではないでしょうか。
カナダを御訪問の折、子守唄をお歌いになられておりまし
たが、誰もが一度は聞いた事があると思います。
また、呼び名は様々ですが、「けいどろ」「ゴム飛び」
などの遊びも、一度はしたことがあると思います。
昔からやってきた遊びは、その条件の中で力を発揮する事
を求められ、その一方で協力したり相談したりしながら、
さらに進展させることもできます。
「正しい智恵(知識ではありません)」を身に付けさせる
ために最小の努力で最大の効果を引き出すもの、それは
遊びのなかにある。
1+1=2も1+1≠2も1+1≒2も、全ての要素を、遊びはすで
に持ち合わせている、というのは言い過ぎでしょうか。
しかし、だからこそ二重橋を渡ったのではないか。
勝手にそう考えております。
誠に勝手で、かつ突飛な文章を書いてしまい、本当に申し
訳ありませんでした。
コメントをいただき、感謝申し上げます。
>ただ、二重橋を渡ったのは『保父』だけではないと思い
>ますが、何故その本が選ばれたのでしょう。
手元の資料によりますと「昭和34年11月「著書「保父」が対象
となり、京都府知事より教育研究奨励表彰を受ける」とあり
ますので、おそらくその関係で推薦されたものと思われます。
>とある幼児教育を書いた本を本屋で立ち読みしたとき、
>「父親は育児に参加してはいけない(?)」と書かれて
>いた気がします。
前後関係があるわけですが、横峰氏の本にはそのような趣旨の
ことが書かれています。この本に限らず、「・・・がいけない」、
「・・・するように」という指示の形で教育の話を伝えられると
私はいつも抵抗を感じます。それはなぜか?というと、
人間はみな「違う」からです。
各家庭にはそれぞれの事情があり、みな条件が異なって
いるわけで、それを無視してはいけません。なにより
人間一人一人はモルモットではないので、なんとかメソッド
で万事解決、というわけにはいかないことを承知しておく
必要があると思っております。
自分をふり返ってみても、もしあのとき別の道を選んでいた
らどうなっていただろう?と想像してみても、実際に
後戻りは出来ない以上、答えようがないのです。すべて想像
の域を出ません。
子育てもそうです。自分の子を育てて今満足していると
しても、だからみなさんも同じようにしなさい、とは
口が裂けても言えません。別のやり方は無限にあったわけ
で、私はそのどれ一つとしてトライすることはなかったし、
今もできません。不可能な可能性をさもよいことのよう
に他人に伝えることは私にはできません。自分が経験して
よかった、ありがたかった、と思えることについて、少し
お話しすることが出来る程度です。あくまでもヒントとして、
または他山の石として。
もっと言えば、教育は学問として成立するのか?というのが
私の長年の疑問です(こう言うとかなりの爆弾発言なのですが、
正直言うとそういうことになります)。学問であるためには
何かの結論が必要なわけですが、その結論は本当に正しいの
だろうか?反証することはいくらでもできるだろう、と。
たとえば悪事を重ねた人でも、死ぬ間際に心を入れ替える
こともあれば、その逆もあります。人間は死ぬまで何が
起こるかわかりません。何を持って「よい、悪い」と決める
ことが出来るのか?私には自分の経験を手がかりにするほか
何もありません。自分が経験して幸せを感じたことは、他人
にもしてあげようと自然に思います。
ご存じと思いますが、本園の歩いての送り迎えも、たいへん
なのですが、やってよかった、と毎年卒園児を送り出して
思いますので、その経験をふまえてまた4月から仕切り直し
ます。すべてその繰り返しです。
家庭教育に話を戻しますと、若いお父さん、お母さんは、
見よう見まねで子育てするわけです。それしかないわけです。
そして、そこに真実があると思うのです。真心があるかぎり、
間違わないと私は信じています。自分もそう信じて幼稚園を
やっているわけですから。失敗したと思うことがあっても、すべて
納得できる経験です。他の人の言うことを鵜呑みにしたら、
その人を恨むことになります。
夫婦で話し合い、私たちはこうする!という方針をお持ち
であれば、私はそれが無敵だと思うのです。
学歴が大切だと信じるのも一つの価値観です。しかし、
あるときそう信じても、いつかそうではないと気づく
ことがあってもよいでしょう。いつもこの子のために
何が一番大切なことだろう?と夫婦で話し合えば、
軌道修正はいつでもできます。最後までそれを
貫くことができたら、それはそれですばらしいことです。
勉強について、私は今の多くの人の価値観とは異なるもの
を持っていますが、それを言うとせかっくがんばって
努力している人に失礼でもあり、おせっかいなので、
むしろエネルギーは山の学校に注力しています。
ここでは思い切ったことが自由に出来ますので。まだ
初めて7年目ですが、いずれ確かな学びの山道が雲の上に
続くように出来ていくと思います。いずれにせよ、
世間がこうだから、とか、よそは「みな」こうしている
から・・・といった理由で何かを決定するのは、
たいてい後悔します。信念と呼べるものがそこに
あるなら、私は学歴至上主義も一つの考えだと思いますが、
なかなか徹底しきれるものではなく、どこかの段階で塾なり
外部にアウトソースするのがオチのようです。
ちなみに、私の場合、父は「勉強するな!」と言い続け
ました。子どもであっても家で果たすべき責任を
いい加減にしていては、勉強する資格がない、と。
これは保父をお読み下さった方には言う必要がないのですが、
父にはそう言えるだけの経験があったわけです。だから、
説得力がありました。(で、結果的に私は勉強したほうだと
思います)。
しかし、この台詞だけを切り取って、同じことを子どもに
伝えようとしても、うまくいかないでしょう。その人の中で
自分の体験を通じた「この台詞!」に熟成していない限りは。
父の書いたものの中に、若くして殉職した消防士の家庭の
話が出てきます。あの例は、お母さんがそのお父さんのその
「一言!」を代わりに代弁し続けた例だと言えます。理想は、
お父さんとお母さんがその考えを共有できていることです。
それにまさるものはありません。
子どもたちと話していると、「うちはテレビ見ないの」と言う
子もいます。テレビ、ビデオ、ゲームに無縁の家庭があっても
よいわけです。「うちはうちです」と穏やかに子どもに言えば、
子どもはわかるものです。「みんなもってるし・・・」とは
子どもの台詞の十八番ですが、それを無視するわけでなく、
「うちはうちです」と言えばよいです。また、本園の保護者の
中には「それがいやならよその子になったら」と言われた方
もいらっしゃるようで、なかなかのものです。ちなみに「みんな」は
英語のオールではありません。サム(何人か)が正解です。
しかし、日本語ではサムがオールに変換され、妙な
説得力を帯びます。危険です。
>ただし、限られた条件の中、それだけなのです。
>例えば、算数や数学において、1+1は2です。
>しかし、実際は違う場合が多いのではないでしょうか。
>雲は1つと1つが合わされば、これまた1つになりますし、
>1人1人が協力すれば、2人以上の力を発揮したり、逆に
>発揮できなくなったりします。
>ただ、それでは数学の試験には合格しません。
>でも、1+1≠2、これもまた事実なのです。
祖父の書いた「唯物問答」の裏表紙の絵をご存じでしょうか。
まさに、、1+1≠2 と書かれています。この話は、子どもの頃
何度も繰り返し祖父から聞かされました。
「これはだいじなことなんだよ。」と力を込めて小さい孫に
語るわけです。意味はわからないにせよ、妙に心に残りますね。
>様々な教育論が出てますが、教育する上で最も大切な事は
>「正しい智恵を身に付けさせる事」と思っております。
>どれもそのために考え出されたものと思います。
仰るとおりですね。智恵は知識より広く、大きな概念です。
学歴主義を私がネガティブに見ている理由の一つは、
知識がものを言う世界だからです。その知識自体「閉じた
世界」なのです。クラスの生徒が全員満点を取るのが
先生の夢であるなら、その夢は小さいものというほか
ありません。100点の壁を突き抜ける生徒を育ててほしい
わけです。センター試験を見ても、コンピュータが採点できる
程度の問題ばかりです。「次のどれが正解か?選べ。」と
くるわけです。正解以外の選択肢を無限にイメージできる生徒
が実社会で求められます。
>しかしながら、これは茶道と同じと思います。
>一見無駄な動作が多いと思われ、その実、余分な動作を
>極限まで省いた所作、それが今の茶道と聞きます。
>その域に達するにはかなりの年月がかかります。
>今々の幼児教育も、ずーっと先にはその域に達している
>のかもわかりません。
茶道にせよ、日本の「道」のつくものには長い伝統があります。
稽古という漢字の本来の意味は、古いものを学ぶということです。
温故知新という言葉もあります。流行にとらわれず、日本が
昔から大切にしてきた価値を若い世代に伝えていくことは、
教育の大事な役目だと思います。(我田引水ですが、本園
ではそういう意味もあり、英語ではなく俳句を教えています。
英語は必要なら個人で授業を受けた方がよいと思っています。
小学校でやってもよいのですが、中学入試に英語を入れたら
終わりだろうと思っています。)
>ただ、『保父』などで頻繁に書かれている「遊び」はこの
>域に達しているのではないでしょうか。
私は山の学校の先生を採用するとき、何を聞くか?というと、
小さいとき、どんな遊びをされていましたか?ということです。
小さいときの遊びの取り組みを聞けば、どんな人か、一発で
わかります。
>カナダを御訪問の折、子守唄をお歌いになられておりまし
>たが、誰もが一度は聞いた事があると思います。
>また、呼び名は様々ですが、「けいどろ」「ゴム飛び」
>などの遊びも、一度はしたことがあると思います。
>昔からやってきた遊びは、その条件の中で力を発揮する事
>を求められ、その一方で協力したり相談したりしながら、
>さらに進展させることもできます。
日本の昔遊びはよくできている(←不遜な言い方ですが)と
思います。竹馬しかり、独楽回ししかり・・です。これも
本園ではほどほどに(←無理矢理ではなく)取り入れています。
>「正しい智恵(知識ではありません)」を身に付けさせる
>ために最小の努力で最大の効果を引き出すもの、それは
>遊びのなかにある。
>1+1=2も1+1≠2も1+1≒2も、全ての要素を、遊びはすで
>に持ち合わせている、というのは言い過ぎでしょうか。
車のハンドルにも遊びはあります。遊びの部分を奪うと
車の運転は危険でもあります。(自転車しかり)。
しかし、子どもの遊びは副次的なものではなく、むしろ
本質的な位置をしめるものです。暇つぶし、おまけ、
ということではなく。このことがわかる大人は少ないです。
本園の入園説明会ではそのことを話します。わかった方が
こられるので、わたしたちはありがたいです。
>しかし、だからこそ二重橋を渡ったのではないか。
>勝手にそう考えております。
>誠に勝手で、かつ突飛な文章を書いてしまい、本当に申し
>訳ありませんでした
父が在命であれば、二重橋は「結果」にすぎない、と言う
でしょう。父はその後勲章もいただきましたが、子どもたちが
手作りでくれるささやかなプレゼントも勲章も、同じ重みが
ある、というのが父の口癖だったことを思い出します。
長文おつきあい有り難うございました。