発表会目前です。子どもたちは口にこそ出しませんが、言いしれぬプレッシャーを感じつつあるようです。発表会について、6年前「園長便り」に書いた原稿をご紹介します。
生活発表会も終わって、一学期も残すところわずかとなりました。
子どもたちの演技についてはリハーサル・本番とも拝見しましたが、出来不出来という観点から見れば、それぞれのお子さんにとっては、悲喜こもごも様々な思いが交錯した二日間だったと思います。
発表会当日、保護者のご覧になった舞台裏では様々なドラマがありました。プレッシャーのあまり園庭に走り去ったお子さん、せっかく身につけた衣装を直前になって全部ぬいでしまわれたお子さん。また、リハーサルはばっちりでも、本番は張り切りすぎて力を出し切れなかったり・・・。
あれだけの大人数の前ですから、舞台に立つと誰もが緊張するに違いありません。赤ん坊のころには無頓着だった「緊張感」は、人前で「よく見せたい」という「まじめな表現者」にとっては避けて通れない感情であり、それが子どもの「成長」の証なのです。このことについて、私自身の思い出をお話ししたいと思います。
私は「つきぐみ」の部屋に行くたび、思い出すことがあります。
年長児だった6月のある日、お父さんに絵のプレゼントをしましょう、という一日がありました。子どもたちはお父さんの顔を思い出して、それを絵に描いていくのでした。私は絵が好きでしたし、父親に似顔絵をプレゼントする以上、がんばって描かないといけない、いや、良い絵を描いて喜ばさそう、と思ったのでした。
ところが、「考えすぎて」できあがった絵は、まるで骸骨のように頬のこけた顔でした。すでに描かれた肌色の上に、「修正」を施そうとして描き加えた輪郭の線は、かえって絵を収拾のつかない無惨なものに変えていくだけでした。とうとう自分でも「見るのもいや!」な絵になってしまいました。
しばらくして、「それじゃあ、描いた絵を先生に出してください」という言葉を聞くやいなや、私が取った行動は、つきぐみの部屋の外に出て、絵をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てることでした。他の友達(当時は40人近くいました)はどっと先生に絵を出していましたから、一人くらい部屋の外に出てもわかりませんでした(と私は思いました)。
でも、あの絵はどうなったのかな?先生は何も言われなかったけれど、大丈夫だったのかな?お父さんはプレゼントがもらえないままでよかったのかな?という気持ちのまま、家に帰った気持ちを今も忘れません。(その後、クラスの先生から一切おとがめなしだったことがかえって記憶に鮮明に残ったゆえんと思います。)
お遊戯にせよ、絵画制作にせよ、その「発表」に至る「過程」にはたくさんのドラマ、物語、思い出が詰まっているのです。今の子どもは一つ一つの「結果」の善し悪しにとらわれがちですが、大人としてはそのプロセスを大事に見守ることにより、すなわち、子どもの一生懸命の気持ちそのものを励ますこと!により、子どもの経験は未来の成長につながっていくのだと思います。
個々のことは、たとえ親が忘れても、ご本人は一生覚えているかもしれない貴重なエピソードの一つ一つです(私がそうであったように)。そして、悔しさも、喜びも、自分を励ましてくれた大人たちに見守られる中で、やがて将来他人に語ることの出来る懐かしいエピソードへと成長していくのです。
(平成15年7月10日)
コメント
コメント一覧 (4件)
ありがとうございます。
この記事を読んでいたおかげで、今朝、子供のぐずりに注意深く応じることができました。
というのは、起きるなり「幼稚園行きたくない。ぜんぜん楽しくない。おうちも楽しくない。」
と、なにやら「ストレスがたまってる!」とばかりの駄々こね(SOS)があったのです。
この記事を思い出しながら傾聴に努めてみると、どうやら緊張・頑張りそして疲れのほかに
「自分が練習しないときも、じっと観ていないといけない。遊べない。踊ってもいけない」
のが大きな不満の様子。
「そうかー。それは退屈だよねぇ。ずっと静かに見てないといけないの?毎回?
そりゃ嫌だよねぇ・・・」
と本気で共感して、
「自分の練習でないときは、大好きな外遊びといかないまでも
絵本とか折り紙とか、させてもらえたらいいのにね」
と、うなりました。
しかし後ほど、車で送る道中、その先の発表会の「劇」の話が出て、ふと思い至りました。
「今、お友達のをじっと観て待つだけなのはたいへんだけど、
その次に劇をすることになったら、ほとんどが待ち時間になる。
あなたの出番でいないときにも、劇の流れ全体が、あなたの出番に関わってくる。
そういう劇に挑戦するにあたって、集中力が続かず、出ない場面で無関心になるようでは
全体としていい上演には結びつかない。
それを考えると、今、別のグループの発表を見守るのは、いいトレーニングになっているんじゃないかな?」
そのような内容を、息子は黙ってきいていましたが、心に届いたかどうか・・・。
また園の方針が、このような「劇に向けての準備」を意図されたものかは分かりませんが、
「今、耐えていることが、無駄にはならない」と納得して、乗り切ってくれているといいなぁと思います。
思えば、年少さんのときには「舞台に上がれるかどうか?」、次には「衣装を着けるかどうか?」
に家族をハラハラ・ドキドキさせた息子。
あいかわらず発表会も練習も「嫌い」とは言っていますが、その臨み方の中身をみれば
とてつもなく大きな成長を感じます。
決してノリノではない息子をリードし、サポートしてくださっている先生方のご尽力に、
すでに感謝でいっぱいの状態なので、明日は厚手のハンカチ持参で観客席につかせていただきます ^ ^
明日の今頃、どのご家庭もがさわやかな満足感に満たされていますように。
コメントをいただきありがとうございました。生活発表会の練習は楽しさと忍耐のはざまで様々な葛藤が繰り広げられます。待ち時間をどう解釈し、その意味をどのように子どもたちに伝えることができるかはクラスの先生にとって大事な課題です。ご家庭で「劇」に関連づけてお話し下さったということをたいへん有り難く、また心強く感じています。今の取り組みは、秋の運動会も含め、今後のさまざまな活動に対する心準備の意味でも重要な意味を持つと思います。
今日はリハーサルがありました。その際、年長のある男の子が、舞台を終えて部屋に戻ったとき、悲しそうな顔をしていました。理由を聞くと、がんばって演技をしたのに、演技中に私語が聞こえたのが嫌だった、と。じつはそのことは私も気になり、演技終了後に該当の子に注意をしておりました(ビデオに声が入るほどではなかったのですが)。今日の演技がすべて終了し、その後に年長の男の子の訴えを聞いた私は、このことを曖昧にしたくなかったので、該当の子に年長児の男の子の気持ちを伝え、「やはりお兄さん組さんも気になったと言っている。お詫びを言おう」と促し、きちんと面と向かって「ごめんね」、「いいよ」のやりとりを見守りました。このように、お客さんの態度がどれだけ演技者の心情に影響を与えているか(年長児にとっても年少、年中の態度いかんでは気持ちに影響が出る)、ということを間近に見ることができました。クラスの練習中、先生は演技の指導に集中しますが、その背後ではしっかり見ることのできる子もいれば、集中できずに騒ぐ子もいたはずです。その都度、練習をとめ、騒ぐ子には注意を与え・・・の繰り返しだったと推察されます。
そのような試行錯誤の中、あるクラスの先生は、演技も観客も一つだ、ということを伝えるため、ジグソーパズルの比喩を持ち出し、説明しました。一つのピースが欠けても、全体が全体として成り立たないということを言うために、です。自宅でもずっと練習のシーンを思い返し、何をどう伝えれば子どもたちの心に届くかを考えた結果だと思います。
どのクラスの先生もお遊戯の指導を通し、子どもたちの様々な個性とじかにぶつかり、時に励まし、時に叱り、共に汗をかいて階段を一緒に上ってきました。その結果として明日の本番を迎えます。明日は「保護者」という最高の観客を前にして、自分として発揮できる最高の演技がどのようなものか、子どもたちは十二分に経験することでしょう。
お返事をありがとうございました。
この園で、子供たちが「信頼され、期待されている」のをまた垣間見ることができ、感動しています。
「よき観客としてお友達の演技を見守ること」を課せられたことも、
小さなお子さんであっても上演中に騒いだことを見逃されずに反省と謝罪を促されたことも、その証ですね。
子供は、信頼・期待されることで、その域まで伸びていくパワーを強めるものだと思います。
この園における発表会が、「訓練してこんなんできるようにさせました」と保護者に示すだけの
「展示会」でないことは、前々から感じてはおりましたが、
今回のお話から改めて、発表に至るひとつひとつの過程そのものに、
「育ち」や「学び」を得る機会を与えていただいていることを認めました。
子供たちも、自ら演じ、共感をもって友達を応援することで、
自分の演目だけが自分のものなのではなく、発表会全体を自分たちの力で創り上げてきたものだと
感じられるようになっていくのでしょう。
もっぱら「自己」に留まっていた息子の意識にも
こういう経験の積み重ねで「自分が他者に与える影響」「自分が他者から受ける影響」を体感し、
「自分はこの社会の一員であり、彼らは自分の仲間である」という自負が根づいてきて、
社会性が育ってきているのを感じます。
私ももっともっと、自信を持って子供を信頼し、大いに期待していこうと思います。
心のこもったコメントをありがとうございました。
>小さなお子さんであっても上演中に騒いだこと
この点につきましては、私の言葉足らずでした。実際には、「騒いだ」というレベルではありません。年長のスターフェスティバルの間奏では英語の台詞が入ります。そのちょっとよそ行きな英語の台詞に年下の子どもの一部が「反応」したというのが真相です。
ただ、リハーサル最後の演技でしたから、(時間にして1時間半のがまんでした)、大人の私としては、無理ないと思うレベルでした。
しかし、そのちょっとふざけたようにもとれる笑い声に、真剣に演じている年長の男の子が「反応」したのでした(少し泣き顔にも見えました)。
私はこの子どもたちは、それほどまで一生懸命取り組んでいるのだ、という事実を重く受け止めましたので、ここは曖昧にしないでおこうと思い、エントリーに書かせていただいた対応をした次第です。
それにしても、今日の子どもたちの「熱演」には私も胸が熱くなりました。
「真剣なもの」には、自分の中の「真剣な心」がすなおに感応しますね。