昔は当たり前のようにしていたことで、今その取り組みの絶対量が不足していることは多々あります。歩くということもその一つでしょう。それと並び、ものの道理を身体で学ぶ経験も減少傾向にあるでしょう。
たとえば、一本の棒を用意し、二人で両側から引き合います。複数人数で行う競技もあります。これを子どもたち二人で勝負してみるのです。力をいっぱい出し切って競い合う経験は、身体によいという以上に、心の面で、大きなプラスの意味を持ちます。
何に効くのかというと大きくいえば順法精神です。子どもにとっては相手との信頼関係の中で力を出し切る爽快感が得られます。しかし、この勝負は大人の見守りなしにはうまくいきません。一方がふざけて棒を手放したら危険だからです。大人はそのルールを事前に真剣な顔で伝えなければなりません。それでも片方が(おもしろ半分)ルールを破り、相手を故意にこかしたとします。この卑怯な行為はレッドカードものです。大人はここでどれだけ厳しく叱っても叱りすぎはないのです。逆に、ルールをしっかりまもって、互いが勝ち負けを超えて力を出し切れたなら、大人は両者のスポーツマンシップをおおいにほめるべきでしょう。
このように、子どもたちをおおいにほめるには、万一の場合も想定し、おおいに叱る心構えを持つことが不可欠です。大人がこのメリハリを大人がわきまえておかないと、この手の取り組みはすべて失敗します。相撲でいえば「行司」の役割は大人しか果たせません(これを子どもが行うことはできません)。
世の中を見渡すと、男の子なら誰もがもっている闘争心がトラブルの元とみなされ、その健全な発露の機会が少なくなっているように見受けられます。
この力を十分出し切らずにためこむと、気持ちのくすぶりが小さいトラブルを誘発するように思われます。車も渋滞ばかりだとエンジンによくないのと同様です。たまに高速道路でスピードを出すことにより、エンジンのくすぶりはなくなるといわれます。
今述べた考えは、家でも園でもあちこちに応用範囲が見つかると思われます。導入は、お相撲でも縄跳びでも、鉄棒でも、ボールを使った取り組みでも、なんでもよいでしょう(工夫の余地は無限にあるはずです)。実際、男の子だけが夢中になる取り組みというのは少ないはずです。大人が子どもに真剣勝負を挑ませる機会は、男児、女児の違いを超えて、見つけることができると思います。
このようなことを今日のお昼時に Ikuko 先生、Ryoma 先生とお話ししておりました。
蛇足ながら。今私が子どもたちとの間で交わしている「真剣勝負」があります。時間は数秒で終わります。子どもたちは「やって!やって!」と群がります(オーバー?)。これはとくにお父さんにお勧めです。それは力を込めてギューと握手してあげることです。「これは小学校1年生レベルだよ」とか言うと、「ぜんぜん痛くない!」と年少児でも胸を張ります。おもしろいのは、周りの子どもたちが私が力を入れて握手している相手の子どもの表情を真剣に見つめていることです。「もしかしたら泣かはるかもしれない」という微妙な緊張感が子どもたちをそうさせます(それは大人としての私が演出しなければならない大事な要素であり、この取り組みのエッセンスでもあります)。
じつは、こんなことはそれぞれのご家庭で、お父さんがすでにやっておられることかもしれません。ただ、園は子どもたちが複数居ますので、「ぼくも!わたしも!」と連鎖反応が起こりやすく、場にいる「みな」でちょっとした「できた!」の気分をシェアできます。
ギューと握る。それだけです。元気のない子にもギューと握り、「力をいっぱいあげたよ」と言い添えます。最初から元気な子には「その力で先生のお手伝いをがんばってね」とも。ギューと握る。これは私からの「がんばれよ!」の真剣なエールです。大人なら誰でもできることだと思います。
以下、私の全くの私見であり、かつ話の趣旨とずれているとは思い
ますが、何卒御容赦頂きたく存じます。
私が幼かった頃、遊びといえば「かけっこ」「手打ち野球」など、
今とは違い(今はテレビゲーム?)、外でかつ友達みんなで
やっていたと思います。
みんなでルールを決めて全力で走り回っていた頃を、懐かしく思う
今日この頃です。
その頃の思い出といえば、私の場合、怪我をしたときのことです。
どんな小さな怪我をしても、親には絶対に見つからないように黙って
隠していました。というのも、もし見つかったら、必ず言われました。
「ほんまにアホやな、怪我するアンタが悪いんよ」と。
当時は、子供ながら「そんな怒らず、ちょっとは優しくしてくれても
ええんと違うんか」と思っておりました。
それから30年余りの時が経ち、まだ子供が生まれる前に、偶然、
当時の親の気持ちを知る機会を得ました。
結婚式でスピーチをして頂いた高校時代の恩師を訪ねた時です。
「最近の親は昔と変わっている」などと言われていることもあり、
親になる心構えを恩師に尋ねました。
「最近の親御さんか・・・。お前の親御さんみたいな人はおらんな。
お前は当然知らんから、教えとくとな、お前の親御さんとの最初の
面談で、最後にワシが『何か希望はございますか』と聞いたんや。
そしたら何て言ったか分かるか。『先生、あの子が先生の眼から
見て、少しでも悪い事をしたら、どうぞ叩いてやって下さい』って
言いはったんや。その意味が分かるか。お前も結婚した以上、いずれ親になるから、今からその意味をよく考えて、そういう時にはそう
言えるようになれよ」
その後、子供が産まれ、実際に親になった今、一つの答えが出た
のではないかと勝手に思っております。
それは「責任」というものです。
家庭とは最小の社会であり、産まれた時から経験する社会生活の
場である、と書かれていた本がありました。
その家庭において、子供と真剣に向き合うことで、また子供も親も
成長する、とも書かれておりました。
手抜きをせず、滾々と説明し、それでもルールを破った場合には、
親の責任としてキチッと叱る。
そして、家庭という社会の外に出た場合は、その出た先で説明を
受け、ルールを守り、破れば叱られる。
それを繰り返す事で成長していくと思います。
「アンタが悪い」とか「叩いてやって下さい」とか、一見責任放棄の
ように思えますが、そんな事を言いつつ、全ての責任を背負って
いてくれたのは、間違いなく親だったのでしょう。
恩師にその事を再度聞きたかったのですが、3年前に他界され、
残念ながら聞くことは叶いません。
しかし、この「身体で学ぶこと」を読んでいると、ふとこういった事を
考えておりました。
真剣に物事へ取り組むこと。真剣であればあるほど、その達成感
は大きく、しかし代償も大きくなりやすい。
それでも「大人の責任」として、真剣に取り組む事の大切さを子供
に教えたい。それが「親の責任」なのかもしれませんから。
たくさんの大切なメッセージをいただき、感謝申し上げます。
>真剣に物事へ取り組むこと。
私はこのお言葉が教育におけるキーワードだと思っています。
子ども自身、真剣な取り組み(責任を取る行動)を心の奥底から欲しているということを常々思います。子どもほど本物志向な存在はありません。「大人が真剣に生きる姿」をかっこよいとあこがれる気持ちを素直に持ち合わせるのが子どもです。
子どもに夢を聞くと、「お父さん(みたい)になりたい」、「お母さん(みたい)になりたい」という返事が返ることがあり、すてきだと思うことがしばしばあります。
一方、子どもは「真剣に生き」、「責任を取る生き方」を選ぼうとしているのに、その意欲をはばむものがあるとすれば、「無理しなくてよい」、「失敗はかわいそう」という大人の「優しさ」ではないかと思うこともあります。
今日もお昼過ぎの園内の談話で、木登りをしたことがあるか、という話になり、それがどれだけ今の自分を支えているか、というテーマで話が展開し、気づくと、木登り以外にも、めいめいが親の見ていないところでどれだけ「真剣な遊び」(=大人から見て危ない!と感じる遊び)をやっていたか、ということで場の話題が盛り上がりました(笑)。
園を運営する立場からすれば、<危険=回避すべきもの>という不文律がありますが、私は<適度な危険=成長の糧>という今時「へそまがり」な考えを持っています(本園の歩いての登園もその一例でしょう)。ただ、子どもと接していて「おもしろい」と感じることは、子どもは自分で「できる!」と思うことしか挑戦しない、という事実です。
本能的に無理だと思うこと、つまり無謀な勝負には絶対出ません(鉄棒指導をしているとこのことを痛感します)。
重要なことは、身体が小さいうちは、小さい身体にふさわしい「挑戦」しかしないということです。言い換えると、大人の目から見て「安全な挑戦」しかしない時期が幼少時であるわけですから、この時期にどれだけリスクある行動を経験させるかが、その子の将来の安全を保証するのではないかと思います。
このことは「けんか」についても同様で、幼稚園児のけんかで病院にかつぎこまないといけないものはありませんが、これが中学や高校のけんかとなれば、ただごとではすみません。もちろん、私は園内の怪我やけんかを奨励する者ではありませんが、大人がそういったリスクを遠ざけよう、というへっぴり腰の姿勢を持つことにこそ、リスクがあると思います。