日暮れて途遠しというとえらそうですが、以前「山びこ通信」に書いたエッセイの一部をよむと、逆のベクトルに向かっている気がします。
明治の先人はヨーロッパから多くの土産物を持ち帰ったが、一番大事なものを持ち帰らなかった。それは、洋魂、すなわちギリシャ・ローマの古典(=西洋の学問と文化を生み出した母体)であり、言論を重んじる教育の伝統である。明治開国当初、「和魂洋才」の呼びかけのもと、「洋魂」の研究は相対的になおざりにされたまま百五十年が経った。「和魂」は江戸時代のまま停まっている。それでよい、という人もいる。それではいけない、という人もいる。だが、どこから手をつければよいのか。私は、上で述べたように、「和魂」を再確認し、「和魂」の上に人類の「才」を生かす道を探るためにも、今こそ「洋魂」を根本から(=古典から)学ぶべきときが来ていると考える。我々が自己を知る――善いところも悪いところも――には、信頼に足る確かな「鏡」が必要なのだから。
井の中の蛙大海を知らずという言葉も思い出します。学校教育は子どもたちに「大海」を見せ、感じさせ、憧れと希望を促す場であってほしいと願います。
人魂人才は私の造語で、和とか洋を超えて、人間の魂、人間の技術、ということを地球レベルで考える時代なのではないかという意味です。
ちなみに、ギリシアの哲学になると、地球レベルではなく、宇宙レベルでものを考えているので、いろいろ腰を抜かすことがあり、おもしろいです。
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