2025-12-27 中学時代のことで覚えていること

私は中学時代、先生と友達のおかげで楽しく過ごしました。

理科は毎回「実験ノート」の提出を求められました。

通っていたのは市立の近衛中学でしたが、学校として理科には力を入れていたようです。

オリジナルの「実験ノート」はちゃんとした印刷物で、その使い方も学校全体で共有されていました。

頁をめくるといくつか考察のポイントがあり、実験結果を2,3行でまとめればOKでしたが、私の第一印象は、「余白が多い!」というもので、この点が個人的に気になりました。

そんなわけで、中1一学期初回の提出で、私はいきなり余白を文字と記号で埋め尽くしました。

個人的な感想に加え、百科事典を持ち出し、該当箇所の丸写しをして提出しただけです。

従来、理科の先生は、生徒の提出に目を通し、よく書けていたらAを押し、ふつうはB、ほとんど白紙ならCのハンコを押す、という評価の仕方でした。

しかし、ノート返却の初回、私の実験ノートをクラスの全員に見せ、「これをAとだけ評価するのはおかしいと思わないか?」と言われ、特別に「AA」と2つのAを並べてハンコを押したページを皆に披露されました。

私がやったことは実質的には落書きとかわりません。実験の考察とはほとんど関係のない意味のないことで、先生によっては「けしからん!」と叱る場合もあり得たと今にして思います。

が、私はきわめてラッキーでした。意味のないことをしているのに、熱意的なものをくみとって、みんなの前でほめてくれたからです。

その先生は、その後学年があがり担任のしてくださり、また生徒会の学校側の窓口にもなってくださったり、いろいろお世話になりました。

ほめるか、叱るか。先生が違うと、私の心はへし折られ、授業を受けるのも、学校に行くのも嫌になったと思います。

かえすがえすも運がよかったです。

先生はしかしもっと先を見ておられたようです。

私の実験ノートはその気になればだれでも真似できます。教科書の関連個所の「丸写し」でもなんでもよいわけです。

白い余白を文字やイラストで埋めればよし、「よし僕も、私も!」という熱気がクラス中を覆い、その後、学年全体に蔓延しました。

私はその後、文字の大きさを限りなく小さくする方向で他人との差別化をどんどん図り──内容の掘り下げ等学びの深化の方向に非ず──、最終的には中3の頃だとAを6つ頂戴していました(これが最高)。

周囲の友達も(勉強が好きな子もそうでない子も)みんな一生懸命「余白を埋め」、たいていAを複数つけてもらっていました。

先生がしたかったことは、試験の結果だけでなく、この実験ノートの結果も評価の対象にする、ということでした(Aの数1つが何点という換算レートあり)。

口癖は、試験は一発勝負で、それも大事だが、本当に大事なことは毎日の積み重ね、コツコツ取り組む姿勢が何より大事、というものでした。

勉強に困難を感じる子どもたちや学校に通いにくい子どもたちに対し、いつも親身になって応援される先生で、そうした子どもたちのちょっとした努力に対しても、わがことのように喜ばれる姿が思い出されます。

私自身、自分の稚拙な取り組みでも、頭ごなしに叱ることなく、単なる思い付きでしかないことを好意的にくみ取ってくださったことに、手を合わせて感謝したいです。

今は亡き第十二代岡崎中学校長の前川近平先生です。

半世紀前の京都市の公立中学、高校は今から見れば、のどかで自由な空気に包まれていました。

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