今年はAI元年のようです。
未来を精緻に予想できるかのようです。
私はその点について懐疑的です。
科学が発達した現時点でも、死後の魂がどうなるのか、本当のところは誰にもわかりません。
自分の運命がどのような結末を迎えるのか、だれにもわかりません。
未来が克明にわかり得ないとみなして何か不都合があるのでしょうか。
この問いに関して、日本の昔話は示唆的です。
意地悪じいさん・ばあさんの発想は、未来が「わかる」前提で、正直爺さん・ばあさんの「ノウハウ」を盗もうと試み墓穴を掘ります。
「こうなるはず」という目論見はものの見事に外れます。
正直爺さん・ばあさんは、目の前の愛すべき対象に心を傾けるだけで、心穏やかに暮らします。お殿様のごほうびも、あればよし、なくてもよし、の生き方です。
西洋の古典の知恵は、「人間は死ぬまで幸福ではない」と教え、東洋の古典も、「人間万事塞翁が馬」と述べています。
スティーブ・ジョブズ氏も、ドットをつなぐことができるのは、未来になってからに限られる、と語りました。
このドットは、ギリシア人の言う「テュケー」(幸運・不運)のことで、未来になって見えるのは、「モイラ」(運命)ということでしょう。
様々な数値が横行し、「比較」がもてはやされる現代社会ですが、私は「話半分」、「知らぬが仏」説をとります。
とりわけ、子どもたちの通う学校こそ、数値や比較と遠い世界であってほしいと願う一人です。
現実はその逆方向に進む一方なので、せめて各家庭においては、見つめるべきは数字ではなくわが子の瞳である、ということを合言葉に、現代社会とつかず離れず付き合ってほしいと思います。

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