昨日は無事に第66回卒園式を終えることが出来ました。50人の子どもたちは皆立派に卒園証書を手にし、幼稚園を巣立って行きました。式終了後、雨のために室内での記念写真となりました。たしか去年も雨だったと思います。よりによってこの日に降らなくてもと思いたくなるほど、ずっと晴れの天気続いていましたが、こればかりは仕方がありません。
お食事会の会場は第一園舎でしたが、別の幼稚園に来たかと思うほど、部屋全体に工夫された装飾が施されていました。幼稚園を取り巻く自然の環境を再現したかのように見えました。自然ということでいえば、お弁当のご飯が玄米であったこともどこか自然で懐かしい感じがしました。その他目にするもの、手にするものの一品一品すべてに心がこもっていたことはいうまでもなく、お忙しい中よくぞここまでと感激することしきりでした(コーヒー染めの手提げは大事にとっておくより実際に使いたいと思いました)。例年と違うのは、教職員が保護者と子どもたちの間に混ざるように席が用意されていたことです。周りの子どもたちから話しかけられるうち、あっという間に終わりの時間となりました。
第三園舎での謝恩会は、これがあるからまた一年がんばろうと思えるような感動に満ちた時間の連続でした。
それにしても今年の子どもたちは誰もが元気いっぱいで物怖じしません。ほろっとする場面も、全員の元気な笑い声がすべてをかき消します。寸劇も踊りも演奏も、幕間の手品やクイズも、どれもこれもよくここまで・・・と思うほど見事なものばかりでした。手品はいまだにタネがわからず余韻が残っています。どうしてあれがああなるのだろう???と。子どもたちの園での日々の取り組みや行事の活動を本当によくご理解いただいていればこそのパフォーマンスであったと感じました。
職員による出し物はこの一年を振り返る内容でしたが、あらためて色々なことにチャレンジした一年だったなと思い返しました。続く、フォトシネマの上映は、自分自身何度映像を見なおしたかわからないのですが、あらためて謝恩会の本番で見ると、感慨深いものがありました。ここでご紹介したのは、「えにっき」のほんの一部です。5年、10年して「えにっき」をご覧いただくとまた新たな目で幼稚園時代の毎日を振り返ることができるでしょう。
いただいた手作りのお花に蝶が停まっていたことはうれしいサプライズ。お手製のアルバムは昨日と今日、すでに何度もIkuko先生と繰り返し見ています。
謝辞はお二人の保護者から頂戴しました。どのようなお気持ちでお子さまをおあずけくださっているのか、その一番大切な部分のお話をじっくりと聞かせて頂くことができ、今まで大事にしてきたことは間違っていなかった、これからも大事にしていこう、と思いました。
私からのお礼の言葉はなにぶんアドリブでお話したこともあり、言葉の選択について言い直したいところもあり^^、また、起承転結もうまくできていたか怪しげでもあり、保護者の謝辞に対するお返事としてはなはだ不十分ではありましたが、精一杯、今の気持ちを包み隠さずお話をさせていただきました。
内容を強いて要約すれば、「子育ても教育も人生もバランスが大切」ということになろうかと思います。いつも自分に言い聞かせている内容でもあります。
上があって下に意味があり、左があればこそ右の意味もわかる。上だけでも右だけでもいけない。一歩一歩努力する能動的な姿勢は大切ですが、それは心をじゅうぶんリラックスさせる静的な時間とセットにしてこそ意味があります。
大人も子どもも心のバランスは大切です。
結果だけを求めると、リラックスする時間、余裕やゆとりの時間は少しでも削りたくなります。それは「焦り」の別名でもあります。
お話の中でふれたように、最後の俳句の時間に子どもたちに話したことは、「一人ひとり課題は違う」ということです(だから同じモノサシで比較しても意味はない)。算数で言えば、1+1=2が課題の子も、先に進んで10☓10=100が課題の子も、みんな自分の一歩先にある課題はみな違います。「ぼくはそれができたから、みんなより偉いとか、それができないからみんなより劣っている」ということは、ないはずです。
一歩一歩自分の課題を見つめ、それを克服しようと歩み続けるかぎり、みんな偉いし、それがこの園で大事にしてきたことだし、これからもそうあり続けて欲しいです。
たんぽぽぐみの前のチューリップの球根は50あるとします。今土の外に芽を出しているのが10あるとします。その10だけが合格なのだ、というのが学校的な評価です。それはもちろん間違いではありません。正しい評価ではありますが、それが評価のすべてではありません。
土の下にある40の球根はダメなのでしょうか。
子育てはそれぞれの球根に名前を書くようなものです。これは自分の球根だと。その考えが強すぎると、他の成長と比べて一喜一憂しがちです。花壇を見ながら、これは隣より何ミリ長い、とか何ミリ短いと言うのはどうか、と。モノサシで測れば正しい数値は出てきますが、それは花壇のチューリップの球根の成長を心待ちにする私たちの心を適切に代弁するものではありません。
私が今まで「だいじょうぶです」とか「大器晩成という言葉があります」と言ってきたのは、そういう文脈において、「だいじょうぶです。必ずどの球根もいずれ土から芽を出しやがて美しい花を咲かせます」と言っているようなものです。他人だから言えるセリフでありますが、だからこそ私はそう信じ、そう言い続けなければならないと思っています。
いうまでもなく、どの球根も昨日より今日、今日より明日に向かって成長し続けています。
ただそれが土の上から目で見て見えないだけです。しかし、私たちの誰もが経験から知るように、春が来ればどれもが見事な花を咲かせることは間違いありません。
土を掘り、モノサシを何度も当てながら、なぜこの球根はあの球根より早く大きくならないのかと焦る必要はないのです。ただ、個々の球根を目に見えない力で育てる自然の大いなる力を信じたいと思います。
昨日子どもたちと朗誦した蕪村の俳句は、そのような自然の鼓動に包まれる安堵感を見事に表現していると私は感じ、あえてご披露した次第です。
一歩一歩、必ずゴールに着くと信じて歩き続けましょう。楽しくのんびりと、しかし着実に。
毎朝通った石段と同じことですね。だから、この子どもたちなら必ずそれができるし、それを応援する保護者にもそれがご理解いただけると私は確信しています。
それでは、 ”ごきげんよろしゅう さようなら♪”