徒歩通園について
本園は徒歩通園です。子どもたちは毎日手をつないで歩くことで、人生を自分の足で歩く基礎を培い、人を信頼し、信頼される経験を重ねます。それは自立の一歩一歩と呼ぶに値する、じつに貴重な経験の連続といえます。
本園の徒歩通園には健康面にとどまらない様々な意義があると考えています。このことについていくつかの項目に分けてご説明します(文責:園長)。
自立の一歩一歩
はじめて園を見学された保護者は異口同音に「年少児も歩いて登るんですか」とか、「泣いて登るのをいやがりませんか」とお尋ねになりますが、子どもたちを引率する立場で言えば、体力面での心配はいっさいご無用です。むしろ心配の種があるとすれば、入園直後に年少児が「お母さんついてきて」と泣いて訴える可能性です。
集団による徒歩通園ですと、我が子が泣けばその姿を否が応でも目にせざるをえません。泣いてしゃがみこめば、列についてお母さんも「登園」することもありえます。晴れやかな笑顔で「いってきまーす」と手を振る子どもがいるかたわらで、わが子が声をからして泣いているとしたら、親にとってこれほどショックなことはありません。
月齢や家族構成など様々な要因があるかもしれませんが、原因の詮索はしないでいただきたいと私は入園前の保護者会で申し上げています。それが難しいことは百も承知です。だから「あえて」そうお伝えしています。ありがちなのが、自分の育て方が悪いから泣いて登園を渋るのだという解釈です。そう思ってしまうと、親にとっても子どもにとっても悪循環が始まります。
一般に、人前で泣くことはよくないとみなされますが、時と場合によっては泣くことも必要です。泣いて渋るお子さまは、本当は「行かない」と言っているのではなく、心の中では「行きたい」と言っています。ただ、自分一人で行く勇気が出せずにいるだけです。つまり、涙はその準備をしているサインだということです。ある意味前向きでポジティブなサインなわけですが、それを「悪い」とみなせば子どもは迷い、勇気を出すことをためらいます。
そして、ここが肝心なことなのですが、どんなに泣いて渋った子どもも早晩一人で登園する日が訪れます。一人の例外もなしにです。子どもたちにとって独り立ちをして社会に加わることは、いわば本能の要求に従う行為なのです。だとすれば、親はそう達観し、あとは子どもが腹を決めるのを待つだけです。そのタイミングが入園の前かその後かの違いがあるだけだと考えればずいぶん気持ちは楽になるでしょう。
子どもの登園をめぐるタイミングの問題は、桜の開花日の予想と似ています。多少の誤差はあっても毎年三月下旬から四月の上旬にかけて桜は咲きます。例外なしにそうなります。しかし、特定の日(入園式など)に満開であってほしいと願うとき、開花予想日は大きな心配事に早変わりします。「見つめる鍋は煮えない」と言いますが、近視眼的にものごとを見つめるとき、人間に悩みはつきません。長期的視野でものごとを眺めるとき、そのような悩みの多くは消失します。
私は悩むことが無意味であると申し上げているのではありません。悩めばこそ訪れる歓喜があります。ある朝、涙をこらえながらもしっかりと手を振って初めて列に参加した我が子の姿。それは一生の宝と言えるのではないでしょうか。それから一年後、今度は別の意味で驚かされます。新年度が始まると、また新たに涙を流す子どもたちが登場します。するとどうでしょう、驚くなかれ、我が子がその泣く子を励まし、ハンカチで涙をふいているではありませんか。
私は仕事柄、毎年このような感動のお裾分けをいただいています。いったん涙の時期を過ぎ、どの子もあたりまえのように登園できるようになっても、私はそれをけっして「あたりまえ」なこととは思いません。親子が笑顔で「いってきます」、「いってらっしゃい」と挨拶を交わす姿は何より尊いものに見えますし、子どもたちが一歩一歩、しっかり山道を登る姿は、文字通りの意味において「自立の一歩一歩」と呼ぶに値します。
歩くことは楽しいこと
入園前の保護者から、「うちの子は全然歩かなくて困っています。ここの幼稚園に入ったらちゃんと歩けるか心配です」と言われることがあります。私はいつも「心配ご無用です」と答えます。帰り道に疲れて居眠りした年少児を抱っこすることはありますが、「歩くのはいや」と言って駄々をこねるお子さまには今まで一度も出会ったことがありません。
親と一緒だとなぜ歩かないかといえば、歩かなくていい理由があるからです。抱っこと言えば抱っこしてもらえる環境にいるとき、子どもは自分から進んで歩きません。あるいは本当はたくさん歩けるのに、親が無意識のうちにブレーキをかけているケースもあります。たとえば日常が忙しいと、子どもは足手まといになり、ついつい子どもをせかすことが多くなります。そんな態度を示されつつ、いつも自分の動きを制止されたりせかされていると、子どもは歩くことがだんだん苦痛になり、「歩こう」と言っても「歩きたくない」となります。
生活習慣を一度に変えることはなかなか難しいのですが、いろいろ時間を工夫して、親子で散歩を楽しむ習慣をつくるのがベストです。便利で忙しい現代社会の中で、あえて「歩く」選択肢を選ぶことは簡単なことではありませんが、ほんの少しの不便を日々の生活の中に取り入れることは、人生を能動的に生きる上で大事なことではないかと思います。
大人の目で見ると、本園の歩いての登園は大変だと思われますが、子どもたちの本音は「こんなに歩けてラッキー」ではないかと思います。子どもたちは純粋に歩くのが好きです。そして、遠足のように友だちと手をつないで歩くのがうれしいのです。楽しみながら、人生の生き方の基本を日々養えるという点で、私はこれからも徒歩通園のスタイルを守っていきたいと考えています。
手をつなぐことは心のふれあいを経験すること
年中、年長の子どもにとって、毎日の徒歩通園の中で、年下の子にさっと手を差し出すことは日常の風景になっています。
年少児が入園したてのころは、年上の子が手を出しても、警戒心からか、つなぐことを拒む場合があります。年上の子どもが気の毒だなと思う場面もありますが、そんなことを繰り返しながら、ひと月もたてば、どの年少児も心を開き、年上のお兄さん、お姉さんと笑顔で会話しながら登園するようになります。
子どもたちは手と手をつなぎ、毎日心のふれあいを経験しています。ある年の寒い冬の朝のこと。目の前では年中の女の子が年少児の手をつないでいます。ふと気がつくと、その年中児が何かもぞもぞしています。見ると、かばんに手袋を一つ入れようとしていました。どうして一つだけ入れるのかなと思って見ていると、手袋を外した手で年少児の手をつなぐためでした。その年少児は手袋をしていません。自分が手袋をつけたままだとつなぎにくいと思ったのです。
その後、片手は手袋、片手は素手で年少児と手をつなぎ、最後まで笑顔で登園したわけですが、私はその年中児の優しい気持ちを思い、心が温かくなりました。私も、手袋をしていない子どもとは素手で手をつなぐようにしています。そうしないとつないでいる気持ちになれないからです。外気の寒さとは関係なく、手をじかにつないでこそ感じるぬくもりというのが確かにあります。
手は不思議なものです。人は赤ちゃんのときから、手で色々なものをさわったりつかんだりしながら、その存在を認識していきます。直接ふれる経験は心の奥深くに残り、その後、人やものとさまざまな関係を結びながら生きていくための土台となります。手を使わずに、学び成長することはできません。そうした手と手がつながるとき、心と心がふれあい、生きる喜びと希望がわいてくるように思うのです。
(文責)北白川幼稚園 園長 山下太郎