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「絵本を読むということ」というタイトルで以前書いた文章をご紹介します。

これを書いたのは12年前のことですが、今もその当時と同じ気持ちです。絵本が手元になくてもよいと思います。大人が目に入った景色を見て「きれいね」とつぶやくだけでも子どもはそれを物語として受け止めます。

人間の心は不思議にできていて、私の勝手な仮説によると、子どもたちの心は大人の美意識は美意識として受け継ぎ、大人のそうでない言葉は(かりにあるとしても)きれいに押し流すようにできています。常に「美しい」言葉で子どもたちの周囲を彩る必要はありません。

大人はふつうにすばらしいと思えばそういえばよいだけのことです。日常に目を向けると、チャンスはいくらでもころがっていて、たとえば、自転車を止めて夕日を指さし「きれいね」と子どもと語り合うことが、絵本の世界に親しむ根っこにあります。

世の中は理想と現実がないまぜになってできあがっています。大人の心も同じことで、自分の心のよい部分だけを残し、そうでないものを徹底的に追い出したいのが人情ですが、けっして無理するべきではありません。無理をせずにありのままでよいというのが私流に理解する老子の心意気です。間違っているかもしれませんが、私は「無為自然」をそのように都合よく理解しています。

前置きが長くなりましたが、私が絵本について考えることは以下の通りです。ご参考まで。

『絵本通信』総括(2004年)
子どもにとって、絵本は自分で読む本というより、親に読んでもらう本です。どの子も絵本が大好きですが、それは本そのものが好きというより、本を読んでくれる親の優しさが心にしみ入るからだと思います。この愛情こそすべてにまさる絶対的価値を持っています。しかし、これを自覚する大人は少ないようです。

乳児の発育に授乳が不可欠なように、精神発達の初期の段階において、愛情に満ちた親の言葉かけが必要なことは言うまでもありません。この時期に人間の子がオオカミに育てられたなら、生涯オオカミの鳴き真似しかできないと言われます。

一方、子どもを取り巻く環境に目をやると、TVやビデオの影響が絶大です。そこで交わされる日本語は、大人から見ても刺激に満ちている点に注意を払う必要があります。乳児に劇辛食品を与え続ける親はいませんが、子どもにTVやビデオを際限なく見せることに抵抗を感じる大人は予想以上に少ないようです。

『となりのトトロ』で有名な宮崎駿監督は、「私はトトロの大ファンで、うちの子は、毎日3回見ています」と言った母親に対し、即座に「そんなこと、やめてください!」と叱ったそうです。作品の内容の問題ではなく、子どもが機械的映像を繰り返し見続けることに弊害があるのです。ビデオの場合、スイッチを入れると自動的に映像が映し出されます。何度スイッチを入れても、まったく同じ映像が同じ時間だけ流れます。人間の子は人間が育てます。ビデオは子守ではありません。

どうかお子さんにはたくさん絵本を読んであげてください。何もたくさんの絵本をそろえる必要はありません。気に入った本をボロボロになるまで繰り返し読んでも、子どもは決して飽きることはありません。心を込めて読むことに意味があります。上手下手が問題ではありません。絵本を読むことをなかば義務と感じ、上の空で音読しても、子どもには嘘はすぐにばれます。逆に、「もういっぺん読んで!」と子どもがねだるのは、心が通じている証拠です。

将来子どもが「本好き」になる秘訣は、親が絵本の読み聞かせの時間を楽しむことです。この生活習慣が子どもの精神世界を広げ、豊かにしていきます。小学校以上の勉強において一番大事になるのが「国語」ですが、その基礎となる言葉のセンスは家庭での読み聞かせの習慣――家族のあいだで交わされる会話のすべて――によって養われると言って過言ではありません。

家庭には、テレビのような不特定多数を相手にした「虚構の言葉」ではなく、喜怒哀楽すべての感情を表現した「生の言葉」に接する機会に満ちています。子どもには「喜び」と「楽しみ」に満ちた言葉を聞かせたいものです。しかし現実的にはそうはいきません。そこで親による絵本の読み聞かせの出番です。親が「むかしむかしあるところに・・・」と語り出すとき、子どもは、善いものを善いものとして、また、美しいものを美しいものとして受け入れます。

善悪の判断の定まらない子ども時代には、たっぷり言葉の栄養を与える必要があります。乳幼児にとっての授乳と同じく「言葉の授乳」が必要な時期があるのです。これは、他人任せに出来ることではありません。

子育ては、親が子にできることに絶対的な価値があります。本の読み聞かせを通し、子は無言の内にも親の愛を感じ、いずれ自らの力で大きくはばたく糧を得ます。

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