人間は学ぶ存在である。

学ぶ意味、勉強する意味が見えにくくなっているといわれる今日。他国であれば、「勉強できる」という表現は、勉強ができる恵まれた境遇を示唆する。

日本では、それが当然視されていて、「勉強できる」とは「学校の成績がよい」という程度の意味しか持たない。

だが勉強の意味が曖昧になると、学問という言葉も死語になっていく。逆に、そうなりつつあるから、勉強することの意義が見えにくくなっているのではないか。

Barba non facit philosophum.(髭は哲学者をつくらない。) という。

教育は髭を作る技術ではなく、哲学者をつくるためにある。

哲学者とは真理を愛する者の別名である。

子どもたちは真理を愛する者たちである。

ゆえにラテン語の言葉では「自由な者たち」(liberi)と表現される。

子どもたちが当たり前のように輝かせている好奇心。大人の都合でそれをすぼませることは罪であると思う。

関連記事: