一学期に子どもたちが作った俳句を少しご紹介します。
うつくしい はるのさくらは きれいだな
ちきゅうぎは くるくるまわる せかいちず
とけいはね かちかちおとが するんだよ
すいかわり ぼうでたたくと われるんだ
はるのかぜ ゆらゆらひかる ひかりだよ
おほしさま きらきらひかる おちてきて
たんぽぽは わたげふわふわ とんでいく
かぶとむし そろそろとべよ きのみつに
つばめのす かわいいあかちゃん のってたよ
いちごはね おひさまのあじが するんだよ
どれも四月から五月初めにかけて提出されたものです。最初の4句は、なんと初回の俳句の次の日に「はいっ」と本人から手渡されました。二回目の俳句の時間にさっそく紹介しましたが、他の子どもたちにも「驚き」だったと思います。
「とけいはね・・・」の俳句には細かな観察力が感じられます。おそらく、私が最初の時間にお話ししたこと(静かに黙想すると時計の針の音が聞こえる)をふまえてのものかもしれません。
次の「はるのかぜ・・・」と「おほしさま・・・」は子どもらしさをたたえながらも、大人の言葉遣いへの憧憬とそれを表現できるだけのセンスが感じられます。私が皆の前で発表したとき、ご本人は顔を真っ赤にして照れておられました。それほど心を込めて作った作品だったのでしょう。
「かぶとむし・・」の句は前回ご紹介しました。このお子さんの虫への愛情についてはそのときご紹介しましたが、同時に「俳句」という世界の持つ古雅な雰囲気にもあこがれをお持ちのようです。俳句の時間中私たちは正座をするのですが、彼の姿勢のよさは目を引きます。また、俳句の時間が終わって、園庭で出くわしますと、わざわざ「俳句を教えてくれて有り難うございました(ぺこり)」と挨拶までしてくれました。なにか大切なもの(日本文化の伝統ということでしょう)に自分は今出会っているのだ、という自覚が顔にはっきりと書いてありました。
残る3句は同じお子さんが作ったものです。どの句もすなおでやさしい心が描かれています。このうち、「いちごはね おひさまのあじが するんだよ」についてですが、これをクラスで紹介したとき、「うつくしい はるのさくらは・・・」の作者(男の子)が「それ、5・7・5になってへん」と鋭く指摘しました。
このような指摘は毎年だれかがします。その指摘ができるということは、本当によく俳句のリズムがわかっている証拠です。このときは、「よく気がついたね。たしかに『おひさまのあじが』は8つあるね。でも、それでもいいんだよ。大人の言葉では『字余り』と言います。逆に6つでもいいんだよ。それは『字足らず』と言います」と述べてフォローしました。同時に「『が』があるほうがいい感じがするね。『が』がないとどうかな?」とも尋ねてみました。
つまり、なぜ字余りになったのか?と考えますと、この作者なりに「推敲」した結果に違いないと思いました。実際「おひさまのあじ」のバージョンと、「おひさまのあじが」を比較しますと、後者のほうが、メリハリがついて感じられます。子どもなりにそれに気づき、あえて8文字にしたのでしょう。「おひさまのあじ」という夢のある表現を含みながら、同時に几帳面でまじめな気持ちの窺える作品だと思います。
この「まじめな工夫」をクラスの子どもたちに説明したところ、みな納得したようでした。このような解説やフォローは、下手をすると俳句を作って提出することの「敷居を高くする」ことにもつながりますが、そのあたりは気をつけつつ、私はむしろ、芭蕉や蕪村の俳句だけでなく、子どもたちの作った作品そのものが、自分たちの「学び」につながることを折にふれて伝えていきたいと考えています。