年長クラスでは週に二回俳句に取り組んでいます。
今日は新しい俳句を紹介しました。
「人は寝て籠の松虫鳴き出でぬ 子規」
子どもたちにはイメージしやすい内容かと思いますが、寝静まった後のことは逆にイメージしづらいかもしれません。
何を言っているのだろう?と内容に関してよくわからなくてもお構いなしに声に出すことが「素読」のやり方です。
意味を教えずひたすら正しい「形」を繰り返しインプットします。
インプットが極限に達するとき、必ずリバウンドのようにアウトプットに向かいます。
これは私の経験ですが、小学時代から毎週日曜日の朝になると『論語』の素読を経験しました(小学校から中学3年まで祖父が、中3の冬以降は父が先生役でした。祖父は私が中3の2月に他界しました)。
素読の効果はどこにあるかを述べたいと思います。
ただひたすら声に出しているうちに意味がわかればよいのですが、そんなことはありません。
漢文の書き下し文は小学生には外国語のようなものです。
私にとってのアウトプットは、中学1年の時にそのタイミングが訪れました。
といいますのは、中学1年の時に初めて『論語』の言葉が教科書に書かれていたからです。
「あの言葉はこういう文字なのか」と。教科書にはまず白文が掲げられていましたが、言うまでもなく文字が音になって目に飛び込んできます。
アウトプットと言えるかはわかりませんが、脳みその中でそれまでせき止められていた何がが激しい勢いで動き出しました。
目の見えなかった人が手術を受けて初めて形ある世界を目で見るような(感動には及ばないかもしれませんが)大げさに言えばそういう感動がありました。
幼稚園時代に繰り返し声に出した俳句と再会するのはいつでしょうか。
小学校のどこかのタイミングで出会うことを祈ります。というよりも、耳と口だけでやりとりする「授業」の先取りを経験した子どもたちは、小学校に入り、文字による学習に出会います。
そのときに、「おお、あの『音』はこう表記するのか」と目を輝かせてくれたらそれにまさる喜びはありません。
家で絵本の読み聞かせをされている場合、子どもは最初耳で内容を聞き取ります。
いずれ、親が音読する本を一人で読めるようになります。そのときに、上でかいている「感動」を子どもたちはすでに味わっているといえるかもしれません。
親の読んでくれた「あの音」は「この文字」か、と。
今まで何十回と書いてきましたが、私は「読み聞かせ」が大事だと声を大にして言いたいです。
学校の教科の中で国語が一番大事です。その基本は、音読することにあります。
子どもの学力を高めるうえで、親による読み聞かせがすべての基本になると思います。
親にとっても童心に返ることのできる貴重な時間であり、子どもと心が一つにつながっていることを実感できる時間でもあります。
役に立つからというよりも、子どもが大きくなってからでは後戻りできない一日一日が目の前にあるので、大切なものは大切にしたいですね。