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前々回の俳句の時間に黙想の時間が昔は5分だったという話を子どもたちにしました。昔というのは私の幼稚園時代のことです。当時は俳句を教えてくれるのは園長(父)でなく、園主(祖父)でした。

当時の黙想が5分だったと言えるのは、父の書いた『この道50年』の「幼児と俳句」にそう書かれているからです。

「かつて5分間持つていたものが、今、2分間も持たないというのは、いったいどういうことなんだろう?」私は、真剣に悩みました。

こうあります。この「今、2分間も持たない」「今」とは、このエッセイの書かれた15年ほど前のことを指します。先日このエッセイを読み返し、今は2分も黙想をしていないことに気づきました。正直に言って、せいぜい1分ちょっとです。それ以上長くは難しいという面もありますが、私自身の中でこれ以上は無理だろうと思い込んでいる部分もあると今回反省した次第です。

そこで私は前々回の俳句の黙想を終えたとき、子どもたちにこう話しました。「先生が幼稚園で俳句を習った頃は5分間目をつぶりました。今から15年前は2分間でした。今は1分です。短くなってきたのには理由があります。昔はものがありませんでした。ビデオもテレビもありませんでした。正座をするのもふつうのこと、先生の前でじっと静かにすることもふつうのことでした。今とは全然違います。だから、同じ2分、同じ5分でも今と昔を比べることはできません。ただ、このまま1分しか黙想をしないというのは残念です。がんばってどれだけ長く目をつぶることができるか、次からやってみましょう」と。

ということで、前回の俳句の黙想は全員で心を合わせ90秒の黙想ができました。あえてそれ以上しなかったのは次回2分に挑戦するためです。数字だけにこだわって無理をすれば、いつでも5分くらい黙想はできるでしょう。しかし、全員が静寂を保ちながらの黙想はまだ無理だと判断します。だから残りの俳句の時間の中で、それに挑戦しようと思っています。平成の今のベストタイムはどの程度なのか、また、無理なく継続できる平均値はどの程度なのかを探るためにも。

ちなみに俳句の発表(皆の前で覚えた俳句を一人で言う)や劇の発表でも「静寂を保つ」必要があります。劇の場合、それは舞台の袖で「待つ」際にです。これが「大きな声でせりふを言う」こと以上に今の子どもたちには難しい課題になっています(今に始まったことではないです)。そして、今年も子どもたちはこの課題にも取り組んでいます。否、取り組む大事さを事あるごとに私は話しています。

大きな声で発表できることは、それを支える静寂があればこそなのです。つまり回りの協力あればこそ自分も力を出せるし、自分が静寂を守ることで回りのお友達の力を引き出すことができるということを子どもたちには俳句や劇の取り組みを通じて学んで欲しいです。

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