今日は参観日でした。
多数の保護者の皆様にご来園いただき、ありがとうございました。
私は年長児のクラスに行き、俳句の時間を持ちました。
はじめてご覧になる方は、いきなり正座している姿に驚かれたかも知れません。
幼稚園創設当初から変わらないスタイルがあれです。
それは、たぶん昔の日本人が寺子屋で「素読」をしていたときのスタイルです(見たことがないので想像です)。
素読と言えば、読みは「そどく」で、やり方は今日ご覧になったとおりのやりかたです。
先生が言葉を発し、生徒が耳で聞いた通りを声にだして返す、あとはその繰り返しです。
寺子屋では「論語の素読」をしたようです。
やり方は同じで、意味は教えません。ただ言葉を繰り返すだけです。
週に2度俳句の時間を持ちます。時間は短く10分程度です。
いずれ、園児自作の俳句が集まるようになれば、それも紹介します。
また、全員がスラスラ覚えられるようになったら、手を挙げて皆の前で発表(一人で覚えた俳句を発表)します。
俳句について、素読については今まで何度も書きました。
>>「素読と子どもたち」(2015年度冬 山びこ通信巻頭文)
これは山の学校で実践していた論語の素読を元に書いた文章です(今は土曜日に定期的な予定が入るため、小学生の素読はやっていません)。
自宅で素読に当たる取り組みをしたいということであれば、親が手本を音読し子供に復唱させればよい、ということになります。親子では甘えが出るのでやりづらいかもしれません。言葉の教育の基礎という観点で言えば、私は絵本の読み聞かせで十分だと思っております。
素読的にアプローチするなら、同じ絵本をできるだけ繰り返し読む、ということでよいのではないでしょうか。
子どもがお気に入りの絵本を何度も親が声に出して読んでいると、ある日見ていると、子どもは一人でその本を声に出して読んでいる(字は読めなくても親の声を思い出して復唱している)、という姿を目撃するでしょう(これはある意味で「時間差素読」です)。
読み聞かせが素読の原点だという経験を私は以前絵本通信に書きました。私が最初に書いた絵本通信です(2003年度)。
「まてまて」の台詞を咄嗟に「までまで」に変えたのは、遠い昔に何度も読んでもらった父親の肉声が蘇ったからです。
今の時代ですと、YouTubeやその他の方法で親代わりに読み聞かせをしてくれる方法はいくらでもあります。
しかし、一つの作品を不特定多数を相手にした音声を何度も繰り返し聞いて何かプラスになるものを得て、あるいは、音声通りにきれいに発声できるようになったとしても、何か物足りないものを子どもは感じるでしょう。
プロでなくても、親の読み聞かせには計り知れない価値があります。子ども時代に本を読んでもらった経験のある保護者はもちろん、自分は本は読んでもらったことはない、という保護者も、(あまり使いたくない言葉ですが)騙されたと思って絵本の読み聞かせを行ってもらえたらと、皆さんのお子様の代弁者として申し上げたいと思います。