先日の説明会で、年長の子どもが秋のもみじを見て「なつかしい」と声に出した話をしました。
子どもの言葉でハッとさせられたり、しみじみ感じさせられる経験はほかにもあります。
これは何度かあるのですが、年少児が「わたしが ちいさかったとき」という言葉を用いることがあり、そんなときは何かあらたまる気持ちになります。
不思議に、それは歩道を歩いているときでなく、山道に入ってからのことが多いです。
肝心のその先の話ですが、「わたしが ちいさかったとき、」に続けて、「ママとパパと~にいった」ということもあれば、なにかを買ってもらったことの場合もあれば、弟はいなかった、ということもあり、その都度、相槌をうってきくようにしています。
園での活動を通じて、子どもたちは毎日思い出の種まきをしています。
目に見るもの、耳で聞くもの、手でふれるもの、五感で感じるもの、そのひとつひとつが将来の思い出に昇華していくのです。
いつかぼくは(わたしは)「小さかったとき」あの幼稚園であんなことをして遊んだんだ、楽しかったな、とふりかえる日が訪れますように。
人生の「楽しさ」の原点はあそこで味わった、と心から言える楽しさを日々ぞんぶんに味わってもらいたいと願っています。