西洋古典文学のジャンルの一つに「喜劇」があります。
古典ギリシャではメナンドロスが有名な作家です。
その作品に『兄弟』と題するものがあり、ローマのテレンティウスがそれを翻案しました。
主題は教育論です。
教育において大事なのは厳格さか寛大さか。メナンドロスは「寛大さ」が大切だとしました。
一方テレンティウスはどうかというと、必ずしもそうとは言えないオチをつけています。
現代の目から見て、このオチが原作の価値を損なっていると批判するのがドイツのレッシングを中心とした人たちの声で、上の説明を読むかぎり私たちも何か変だと思うでしょう。
しかし子どもを育てるうえで大切なのは「正しい教育論」なのでしょうか。テレンティウスはそう問いかけているように思えます。
教育論を超えてもっと大切なものがあるのではないか、という観点で作品を構成し直しているように受け取れます。
私はかつてその構成の工夫を分析し、その狙いを正しく理解すれば原作とは別のたいへん魅力的な作品に仕上がっているのではないか、という解釈を示しました。
結論を一言でいえば、「大切なのは子を思う心」に尽きるというものです。
なあんだ、と思うなかれ。
今も子どもの心を横において、教育論を追い求める親は少なくないはずです。
テレンティウスは「私は人間である。人間にかかわることで自分に無関係なものは一つもない」という言葉で知られる作家です。
彼は子を持つ親の悩みをよく理解していました。自分はこれで親として「正しい」のだろうか、悩む親をたくさん見たのだと思います。
正しい、間違っている?と呻吟するその心こそ、親の愛の表れではないか、だとすれば方法よりも、そうした自分の心を信じ、大切にすればよいのではないかと。
私は教育相談でしばしば「今のままでよい」という趣旨のことを申し上げます。
頼りないと思うかもしれません。
最後にどんでん返しを一つ言います。
子どもをどう育てたらよいか、悩む心が親心だと言いました。
その逆は何でしょうか。
悩まない心です。
どうすれば悩まなくてすむでしょうか。
見て見ぬふりをすること。
子を視界から遠ざけること、です。
マザーテレサの言葉を思い出します。
愛の反対語は「無視」であると。
私は数多くの教育相談を受けてきました。
そのたび、親の真摯な悩みを聞き、頭の下がる思い、心打たれる思いがするのです。
愛あればこそ悩むことができる。
ただし悩み続けることではありません。
いつかきっと「あれがこれにつながったのだな」と思える時がきます。
以前書いたスティーブ・ジョブズのメッセージを思い出してください。
その「これ」が何か?誰にもわかりません。
最初から「これ」を親の求める「価値あるもの」としないかぎり、子どもは人として真摯に自分の道を探究するでしょう。
その道が何に通じるのか、万事天にゆだねて「信じて待つ」のでよいのではないでしょうか。