幼児教育の原点はなにかと思う時、子どもたちを前にして生まれ変わった気持ちになることだと思います。

自分は大人ですが、目の前の子どもに生まれ変わった気持ちになれたら、その子のあれがしたい、これがしたい、ぼく(わたし)はこう思う、ああ思う、あれはおかしい、これは正しい、という感情や考えも手に取るように感じられるように思うのです。

「あれしようか(=したいんやな?)」「うん」という呼応が成立したとき、心と心が響きあったように感じられ、うれしく思います。

一日を終えて、ひとり一人の子どもの顔を思い浮かべます。笑顔の場合がほとんどですが、なぜか少し顔が曇って見える場合もあり、そんなときは心の声を聞くように努めます。これは自分で心がけていることであり、すべての先生にいつもお願いしていることでもあります。夜寝る前にクラス写真を見ながら何か言い残したことはなかったかどうか、「あとでね」と言ったまま約束がそれっきりになったことはなかったか、どうか。

もちろんじっさいは他人同士なので、わかる部分とわからない部分は常に残りますが、それは課題として受け止めながら、他の先生たちと話し合う中で、もしかしたらこうかもしれない、などとヒントをもらいながら、次の日に臨むことがあってもよいでしょう。要は問題意識です。

ただ、「生まれ変わる」というのは子どもの友達になればよいというのとはちょっと違います。それはなれあいです。

子どもの中には大人顔負けの立派な魂(=自分に打ち勝つ心、善悪の正しい判断力等)と「甘え」たり「わがまま」をいったりする幼い部分(=自分の欲望に負ける部分)とがあります。

大人も同様です。一般に子どもと友達になってにべったり寄り添うのは、大人の「幼い部分」と子どものそれとがシンクロする例で、これだと子どもの「立派な魂」にとって迷惑です。

最初に書いた「生まれ変わる気持ち」とは、大人の中に眠っている人間本来の「立派な魂」を呼び覚ますことを意味します。上で書いた「あれしようか?」「うん」のやりとりは、子どもの克己心に火をつけるセリフであるべきで、互いに甘え、甘やかす方向での呼びかけではありません。

と、難しいことを書きましたが、私が世のお父さん、お母さんに申し上げたいのは、たとえば夜寝る前に絵本を一緒に読んでください、ということです(上手下手は無関係で、心を込めてというのが大切です)。上で述べたことがその時間には見事に凝縮されています。

(幼稚園でもかならず一日の保育の最後には「絵本」を読みます。時間調整で読むのではなく、明日の再会に向けて、先生も子どもも全員がピュアにリセットして終えるためです。そのための時間確保は大事にし、けっしてやっつけ仕事で読まないように先生たちにはお願いしています)。

絵本にはいろいろなストーリーがあり、挿絵もさまざまですが、大人自身が作品に感動できたり、なるほどと共感できるものが一番です。数は少なくても、同じ本を毎日のように繰り返し読んでも、その作品の選択に親の心がこめられているかぎり、子どもは飽きません。

絵画も音楽も親の感動先にありきです。それを子どもとわかちあいたいという一心で子どもと一緒に楽しむという流れがベストです。幼児が先に一人で美術館、音楽会にいって自分の世界を切り開くというのはありません。親が先に感動し、子どもにもそれにふれてもらい、「共感する」という流れになります。

本園でいえば、俳句があります。子どもが一人で俳句の世界にふれ、ひとりでそれを学ぶ流れはありません。大人が先にすぐれた芸術だと認識し、それを子どもと共有しようと呼びかける所から教育は始まります。私はさいわい幼稚園時代に当時の園長だった祖父から俳句を学びました(今と同じスタイルです)。意味はわからないなりに何度も声に出しました。その体験がベースにあるので、今園児を前にすると「生まれ変わった気持ちで」(つまり、当時の小さい頃の気持ちを思い出して)俳句の時間に臨んでいます。

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