教育の大原則は公平・公正であることだと思います。
オリンピックに代表されるスポーツ競技も同じです。
勝っても負けても参加者も観客も、皆が納得できる大条件は、ルールの運用が公平・公正であることです。
審判がよそ見をしていては、試合は成り立ちません。
同様に、先生がよそ見をしていては、クラスは成り立ちません。
たとえば、幼稚園の取り組みの中に、かけっこがあります。
位置についてヨーイドンのタイミングを子どもたち「全員が守る」ことが大事です。
フライングした子がいたとき、「(子どものことだから)ま、いいか」と流してはいけないということです。
クラスにはたくさん子どもがいます。よく話しかける子、話しかけない子、差がありますが、全員等しく公平・公正に見る目を持つことが大切です。
担任の先生には、クラスの写真を寝る前に見て、ひとりひとりの顔を見てほしいと伝えています。
何か言いたげだった顔が思い出されるかもしれません。
どの子も、「先生あのね」と語りたい言葉を胸の内にもっています。
等しく、まんべんなく、というのは心がけてもうまくいかないこともありますが、一日のどこかのタイミングで、振り返る時間を持てば、「明日は朝いちばんでこちらから声をかけよう」という気持ちにつながるかと思います。
小学校以上の学校でも、さまざまな点で、公平・公正が求められます。
個性を尊重し、一人一人に最適な支援・指導を行うことは、その前提の上に成り立ちます。
学校は、子どもたちが日々の生活を「楽しい」と思えることが何より大切です。
それには、クラスにおける公平・公正を見守る「審判」としての先生の目が隅々まで行き届いていることが大事になります。
必要なときにイエローカードが出せるかどうか、学校という集団教育の場で問われるのはこの点です。
その公平・公正な基準を参加者(生徒)全員が黙って見守っています。
相手が子どもだからといって、クラスの先生が、大人同士で守る最低限のルールを守らない(独善的にふるまったり、えこひいきをしたりする)ようでは、クラスの調和は実現しません。
このあたりの原理・原則は、年齢関係なしというのが私の持論です。