夏休みなので自分を見つめています。
幼稚園のころは素直な気持ちで昔話を聞き、小学生になると自分で昔話を手に取って読むようになりました。
大人になるとしばらくごぶさたしていましたが、子どもに読み聞かせをすることで、ふたたび自分で手に取ってそうした本を読むようになりました。
昔話にはなにが語られているのでしょうか。何がわたしたちをひきつけるのでしょうか。
つきつめていくと、人間は正直に生きないといけないというメッセージが昔話に共通するモチーフだと思います。
それは日本の昔話に限られるものではありません。ヨーロッパに目を向ければ「イソップ物語」があります。
明確に文学作品の形で残っているは、わたしが知る限り、古代ギリシアのヘシオドスの『仕事と日』です。
「神は幸福の前に汗を置いた」という言葉で知られます。
「パンドラの箱をあける」という表現は、この詩にルーツがあります。パンドラが箱を開けてから、人間社会に不幸や苦しみが蔓延するようになったといわれます。
もっとも原文では「パンドラの甕(かめ)」となっており、エラスムスが「箱」に変えたといわれています。
それはさておき、人間の「不正」をとがめ、「正義」を称揚する文学の原型がここにあります。
中国の古典に目を向けると、孔子の残した言葉をまとめた『論語』がまっさきに思い浮かびます。この作品の中では、真心のこもった行為とそうでない行為が厳しく区別され、前者が「君子(りっぱな人間)」のとるべき行動として推奨されます。
きのう紹介した老子は、人間の行為を善と悪にわけ、善行を勧める態度に疑問をもちましたが、私は『論語』の魅力は孔子が語る相手をよく見て言葉を選んでいる点にあると思います。自分は善行について正解を知っているという顔はしていません。もしそうなら魅力は薄れます。
自分はこう思うのだが、どうだろう?という問いかけに現代人たる私たちも人間の生き方の問題をいっしょに考えるように導かれます。(老子の魅力は別のところにありますがそれはまた別の機会に)。
日本の昔話はだれが書いたのか、それを文学作品と呼べるのか、そもそもだれが語りだした言葉なのか、だれにもわかりません。よいおじいさんとそうでないおじいさんが登場し、対照的な言動を通じて、それを聞く(読む)子どもたちは自らをかえりみます。
我々大人はといえば、正直じいさん的な部分とそうでない部分とをともにもちあわせています。どちらか片方だけということはありえません。
昔話を読み、それを耳にすれば、自分の中に眠っている「良心」が刺激され、明日は前向きに心正しく生きようと素直に思えます。
子どもたちも、大人も同じ人間として、それは変わらないことだと思います。
手に取る本が外国の古典でも、現代に伝わる日本の昔話でも、古今東西変わらない人間のすばらしさと愚かさを対比的に伝える点で同じです。
子どもへの「読み聞かせ」というきっかけを得て、大人がそうしたふりかえりの時間をもてることはありがたいことだと言わざるをえません。
『論語』の素読にせよ、昔話の語り聞かせにせよ、人類が未来に向けて平和に生きていくうえで貴重な経験です。
人間はそれを本能的に知るがゆえに、これだけ機械文明におおわれた今であっても、昔話を貴重な遺産として受け取り、未来に伝えていくのでしょう。