2016-07-26 親子のふれあいのヒント

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昨日に続き、父子のふれあいのヒントその2です。いえ、この記事は父子関係限定ではなく、親子のふれあいのヒントになるかと思います。

>>「右手と左手」。

これも以前書いたものですが、工夫次第でいろいろな場面でいろいろ楽しみは広がりますね。

自分自身をふりかえって書くのですが、日ごろ子どもと何かに取り組む場合、多くの場合は大人が先に根負けします。

日常生活はあわただしいのでそれも仕方がないのですが、旅行など時間が自由になる機会があれば、こっそり「今日はぜったい子どもより先に根負けしないぞ」と思ってしりとりに挑戦してみてはいかがでしょうか。

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コメント

コメント一覧 (3件)

  • 近頃思うことあって、よく拝見させていただいております。

    3ヶ月ほど前、10歳になったばかりの長女が、
    「考えることができるのは人だけだよね」と。
    「なぜ人だけが考えるようになったんだろう」
    「その考えも反対になったりするからこわいね」と。

    急にどうしたんだろう、と思いましたが、
    そういうことは人それぞれきっとこたえが違うから自分なりのこたえをゆっくり見つけれたらいいんやない?
    と、返事をしました。
    長女はちょつと悲しそうな顔をしましたが、うん、といって笑いました。

    あまり友人と関わる機会のない長女から思いがけない質問でした。
    他人に向けた視線ではなく自分のことだったのかもしれません。
    もしかしたら、なんでやろう、と同調するだけでもよかったのかもしれません。
    とにかくそれ以来、直接的じゃなくても何かヒントになる読み物はないか…と気にしています。

    現在ホームスクーリング中ですが、先日面談で後期から授業に参加するようにと今後の計画をいただきました。

    はい、と返事してたので多分行くのだろうと思います。
    長女の長い夏休みが有意義であるといいです。

  • コメントをいただきありがとうございました。私も同じ質問を受けたら同じ趣旨のことをお返事したと思います。「ゆっくり見つける」というのが大事なフレーズだと思いました。「一生かけて」といってもいいくらいです。

    誰もが経験あると思いますが、小学校の高学年にもなれば「死ぬとはどういうことか?」考え始めます。やがて人間の行っているさまざまな悪い面に目が向き、「このようなことでいいのだろうか?」と気になることも出てくるでしょう。

    「なんでやろう?どういうことかな?」と考えることは生きることの本質だという見方もあれば、そのようなことをいくら考えてもモノは生まれない(腹はふくれない、etc.)のだから意味はないという見方もあります。残念ながら今の日本の教育現場では後者の見方をベースとした空気が子どもたちを包んでいるようです。

    「ゆっくり答えを見つけていく」というフレーズのうち、後半の「答えを見つける」プロセスにどのようなものがあるのかについてですが、私は一番手堅いのが本を読むことと文章を書くことだと思います。

    このようなお返事は「釈迦に説法」的な内容かもしれません。というのも、そのようなことをすでに行っているからこそ、今回の問いが生まれたのではないかと思われるからです。また、普通はそこで「そんなことよりも・・・」と大人は返事を返すのですが、「自分なりのこたえをゆっくり・・・」と言ってもらえるご本人は幸せです。だからこそ、今回の問いが生まれたと思われるのです。

    一言でいえば、「哲学」への関心が芽生えたということになるのだと思います。「どうしてかな?なんでやろう?」と問い続けることは哲学そのものです。もっとも、哲学という和製漢語は日本語としてしっくりこない感じがいまだにしますし、philosophyの語源に忠実な「知への愛」といっても同じくなじみのない日本語です。

    日本の教育の最大の弱点は「哲学」を軽視している点だと思います。とても残念なことです。少なくとも、今回の問いかけを拾い上げて生徒同士が意見を交換するようなチャンスは日本の場合学校に期待できません。ご本人の「知への愛」を尊び、それを守る意味もこめて、私は「本を読むことと文章を書くこと」だと上に書きました。

    司馬遼太郎氏は中学時代英語の時間に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と質問し、先生に「そんな馬鹿なことを質問するな」と叱られました。これが運命の分かれ目で、彼はこれを機に図書館にこもって本を読みふけるようになりました。

    やはりこれは特別な例でしょう。私はあくまでも「哲学」を尊重する態度を持つ大人が子どもの「好奇心」を守ると信じます。学校の先生や保護者といった身近な大人にそれができなはずはないのですが、現実はといえば「忙しくてそれどころではない」という世の中のようです。ではなぜ忙しいのか、と掘り下げて考えていくことで、「人が働くとはどういうことか?」といった問いに行きつきます。

    哲学とはものを掘り下げて考えることです。大人は忙しいのでそれを怠ります。忙しさを棚に上げ、「哲学は役に立たない」と言い訳し切り捨てます。学校の先生も忙しく、哲学どころではありません。今日は何ページまで進めないといけないと思っている先生にとって「先生、ニューヨークっておもろい名前やな。なんでそんな名前なんやろ?」と聞かれて、その質問にのっかかれる先生は少数派です。

    教育は「これをすればよい」というベストの答えはないが、「これをしたらいけない」というワーストの答えはあると思います。コメントを拝読し、本来何も申し上げることがないにも関わらず長々と書いてしまいました。

    上で書いたことの延長線上に次の内容の文章を書きましたので、お時間があれば参考になさってください。

    >>「勉強とは何か」(http://www.kitashirakawa.jp/study.html)

    • ご解答ありがとうございました。
      拝読させていただきまして、改めて「本を読むことと文章を書くこと」の素晴らしさを痛感いたしております。何を読むかより、とにかく常に読むことが人生の糧になるのだと。
      また、日常こどもたちとのたわいもないやりとりが、好奇心の芽を育て、あるいはついばんでいるのですね。自身の今日を振り返りながら、日々平等にこどもたちに接することはできないけれど、こどもたちがそれぞれ私の目を見て訴えてくるときは、どんな些細な事でも真面目に向き合いたいと実感いたしました。
      ありがとうございました。

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