昨日の話の続きです。

話は小学校以上の教育に飛躍するのですが、発表会を通じ、一人一人に点数をつけることほど残酷なことはない、としみじみ思います。幼稚園は数字による個人の評価はなく、私はそのことに大きな意味があると信じています。

一方、学校教育にはそうした「評価」がつきものです。点数をつけることで台無しになる「何か」をよく理解する先生ほど、葛藤と戦わないといけません。学校でアクティブラーニングが導入されることは決まりのようですが、評価のあるなしで、その取り組みの輝きは変わるのだと思います。

子どもたちの心本位に考えるとき、評価は致し方ないとして、その悪影響を最小限にとどめる秘策は、親がそうした評価について、独自の評価基準をもつことだと思います。学校の評価はこうだが、それをどう受け取るかは親の自由です。

いつも書きますが、私は100点満点で60点の答案を父によって「満点だ」と言われた経験があり、それがその後の励みになりました(笑)。
(「できたところは全部満点」という理屈でした)。

昨日のエピソードにしても、「なぜそんなことをしたんだ!」と父か母がが頭ごなしに叱れば、今の私はいないでしょう。それくらい、親の判断は人生を左右します。

基本的によい点数なら喜べばいいのですが、悪い点であっても「なぜできない?」「みんなできているのに」と問い詰めたら、子どもは返答のしようがありません。

学校の評価を絶対視するとき、子どもを追い詰めるのは赤子の手をひねるように簡単です。

子どもを甘やかせばよい、と言っているのではありません。

私の思い出ばかりで恐縮ですが、私は試験の採点の上では満点でも、父は「満点ではない」と言われたこともありました。

漢字の書き取りで、一瞬「?」と間を置いてから正しい漢字を書いたのですが、父はその迷いを見逃しませんでした。

できたのではないか?とクレームを言うと、「自分の名前を書きなさい」と言われ、スラスラ書くと、「それと同じくらいに書けてこそ、できたと言える」と言われ、返す言葉がありませんでした。小学校高学年の時の思い出です。

このように、点数に表れない、一つ一つのポイントを丁寧に見守ることがあれば、学校の評価がどうであれ、子どもはやる気をもって課題に取り組みます。

その逆に、単純なところで「できた、できていない」という判断を下したり、何より他人と比較して評価を下すかぎり、子どもは対象への興味、やる気のすべてを一瞬で失います。

これは子どもに限らず、大人も同じです。

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